黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『ラ・ボエーム』(新国立劇場オペラパレス)

 

新国立劇場の『ラ・ボエーム』の再演は、楽譜にていねいにむきあうことがいかに重要か、そんなあたりまえのことをあらためて感じさせられる公演であった。

指揮者のパオロ・オルミの音楽がよくもわるくも古典的である。第一幕の幕開きからしていまどき珍しいほどのゆったりとしたテンポ感。いわゆるイタリアオペラの陶酔とはまったく正反対の折り目正しい演奏で、作品が本来もっている(そしてしばしば蔑ろにされがちな)おおきな構造を明確にする。これほど落ち着いたテンポ感のなかでそれを聴かせられるのは、手垢のついた慣習よりもまず楽譜に書いてある形式感に忠実だからである。

しかしその反面、グイグイとすすんでほしいところでドライブ感が不足していたり、もっさりとした印象をあたえる箇所がいくつもあるのも事実。第三幕の重唱などは「どこを切っても金太郎飴」で、こまやかなニュアンスがうかびあがってこない。とにもかくにも安全運転と言われてもしかたがないが、オーケストラが崩れないように無難にまとめることと楽譜に忠実とはまたべつの話だ。スコアに書かれたドラマの折れ線に、結果的に忠実ではないからである。オーケストラの管楽器のバランスの悪さ(ピアニッシモの不徹底ぶり)は指揮者が要求しないのか、それとも演奏者の技量なのか。

その賛否あるだろうオルミの音楽にうまくのって見事な歌を聴かせてくれる歌手がふたり。ひとりはロドルフォ役のルチアーノ・ガンチ。その持っている声の素晴らしさ、テクニックのたしかさで絶賛されるべき歌唱。なんといってもきわめてていねいで、リズムやフレーズにたいする真摯な感覚がずばぬけている。楽譜を知っているものなら唸らずにはいられないほど、プッチーニのスコアのもつ拍節感を生かしており、それがオルミの指揮するオーケストラとぴったり息が合う理由だ。

もうひとりがムゼッタを歌う伊藤晴。歌の安定感や音色の艶やかさはもちろん、こちらも音楽をきちんとコントロールしたうえでドライブしている。オーケストラとの息のあったアンサンブルは、自身の歌における余裕のあらわれでもある。第三幕冒頭の舞台裏からの歌声の声を聞いているだけで、ムゼッタがけっして享楽的な女ではなく真に愛に満ちた人物だと感じさせるうまさも。ガンチと伊藤の歌のみでも、この舞台を観にくる価値がある。

反対にまったくはまらないのがヒロインであるミミを歌うマリーナ・コスタ=ジャクソン。魅力的な声が聴けないのももちろんだが、そのリズムや拍節感はいわゆる「歌手のわがまま」としか言いようのないもの。ソルフェージュ力にとぼしい歌手にありがちな歌で、オーケストラとまったく合わないのは運びの重い指揮者のせいというよりも、ほとんどは彼女の意識不足と言ってよい。楽譜にきちんとむきあわず感覚と慣習で歌ってしまっている典型。それは演技にもあらわれていて、とかく「演技をしている」ような演技ばかりで散らかっている。マルチェロ役のマッシモ・カヴァレッティも、立派な声だがやや表現が乱暴でアンサンブルも滑りがちなのがもったいない。

演出は粟國淳。何世代も前のものかと錯覚するような超弩級にオーソドックスな舞台。演劇的なおもしろさや発見はないが、第三幕の酒場のセットの移動など奥行きを生かした空間処理は見事。これほどかみあわない部分もすくなくない演奏でも、まるでルビッチの旧き良き古典的名画を鑑賞しているような安心感がある。


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