歌舞伎座の通し狂言『義経千本桜』の月後半、Bキャストによる第二部。「木の実」での仁左衛門は颯爽と登場するその出からあざやか。荷物を取り違える意図と段取りを、わざと観客にわかるように見せるのが独特。花道に走り去るおりの表情もまた。いずれも延若型と言われる上方のやり方による。戻ってきたあと小金吾に斬りかかられて左足でそれを下からとどめる姿は、かたちの美しさよりも芝居の運びを重視しているのが仁左衛門らしいところ。後半親子三人だけになっての自然な芝居がこころあたたまる。
権太女房小せんは片岡孝太郎で、叔父の片岡秀太郎が長年演じていた役をはじめて演じる。仁左衛門とのイキはぴったりだが、もうすこし化粧は白くてもよいように思う。尾上左近の小金吾は、いわゆる典型的な若衆の記号的演技にとどまらないのがよい。
「小金吾討死」では前場からひきつづき小金吾を演じる尾上左近が、じつにあざやかな立ち回りを見せる。あのちいさな身体が腰をおとしてきまるときの不思議なおおきさ。中村歌六の弥左衛門が最後に出て、無言の名演技。刀を手にかかげて小金吾の死体から首を切ろうとするぶれない姿が、弥左衛門の覚悟を見せるいいかたち。
いよいよ「鮨屋」の場になる。なんども演じた仁左衛門だが、今月の権太をひとことで言えば「わかりやすくできるものは、よりわかりやすく」という印象だ。たとえば母お米(中村梅花)とのやりとりは、なんとか親を騙して金を出させようという魂胆をとにかく観客に見せている。それがくどく見えないのはサラリとしたリアルなテンポ感のなかで演じられるからである。ただもらったお金を隠す母とのやり取りはやや説明に傾きすぎる。これも「木の実」の場面の荷物取り違えとおなじで、見ていればわかることだろう。そこから派生する鮓桶取り違えの段取りがきわめてすぐれた型(東京のやりかたはあまりに乱暴すぎる)だからこそ、よりもったいないように思う。
後半の梶原の詮議の場においても、とにかく仁左衛門は権太の本心を観客にいっさい隠さない。そういった傾向は仁左衛門においては権太にかぎらずたまにあることだが、今月はとくに顕著である。「面上げろい」と捕らわれの若葉の内侍と若君(じつは身代わりとなった自分の妻子)の顔を上げさせるまでの逡巡、苦悩。それらが見え隠れどころか、意図的に前面に押しだされているのが特徴だ。身代わりとなった女房小せんとの無言の別れにも、それだけやれば梶原にバレるだろうという過剰さがある。現代の観客にもドラマをわからせつつ、あくまで歌舞伎の型の更新と構築のなかでそれを模索する仁左衛門。その本質からすればこの演じかたは想像の範囲とも言える。だがほんとうに現代の観客は、ここまでしなければわからないのだろうか。観客の無理解云々というよりも、仁左衛門の観客にたいする不信が強くなっているのではないか。悲痛なまでにそんなことを感じさせた。
仁左衛門型(もとは初代鴈治郎の型だという)の特徴である「煙たいなぁ」はいつものとおり本火をともなうすぐれた演出。ただし松明が家のなかへ入って梶原の首実検を照らしたり、家の外へ出て生け捕りのふたりを照らしたりと忙しない。そもそも家のなかなら松明はいらないし、家のなかでないというのなら上敷がそのままなのはおかしいだろう。
それでもこの「鮨屋」がまちがいなく現代歌舞伎の一級品であるのは、仁左衛門のみならずまわりの役がひとつも落ちこぼれなく揃っているからである。中村歌六の弥左衛門は、平重盛への報恩につとめる人物としての芯の強さがあるのがよい。権太が手負いになったあとも、愁嘆だの後悔だのという次元とはちがう、もっと深いところでこの悲劇を受けとめているように見える。
絶品は中村萬寿の維盛弥助。時蔵時代からなんども演じているが、今回ほどリアルな維盛を見たことがない。二枚目の優男、平家の公達という役の記号的な要素をいったん脱ぎすて、それでもなお萬寿の身体に残っているそれらの残滓で演じており、結果的に内面のほどよく透けて見える生き生きとした維盛弥助になっている。それだけにお里を「義理で抱いた」ことへの居心地の悪さなどもよく見えて面白い。
お里は中村米吉。お里らしいかわいさはそのままに、良家のお嬢ではない強さもあり。弥助に夫婦指南をする前半は、萬寿の弥助を相手にちゃんと姉さん女房に見えるのがよい。後半はなんといっても所作がきれいにきまっているクドキは大健闘。
たいへん大歌舞伎らしく満足したのが、中村芝翫の梶原平三景時。その顔、姿、滲みでる大将としての風格、どれをとっても歌舞伎そのもの。芝翫唯一の弱点である声もよくコントロールされていて凄みがある。
