黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

錦秋十月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

通し狂言『義経千本桜』の第三部をBキャストで。

まずは「吉野山」で忠信を演じる尾上右近が圧巻である。いわゆる日本舞踊といわれる歌舞伎舞踊には「舞踊家の踊り」と「役者の踊り」があるという。(とくに専業舞踊家におおい意見だ)踊りそのもの完成度をもとめる前者にたいして、後者は役者の持ち味を生かしたり役を演じたりという要素ももとめられる。ごくまれにそれらを高い次元で両立する名人がおり、近年では五代目中村富十郎や十代目坂東三津五郎がそれにあたるだろう。彼らがこの世を去ってから、歌舞伎舞踊のなかで踊りそのものの面白さを見せてくれる役者はなかなかいなかった。だが尾上右近の踊りは、往年の名人たちに勝るとも劣らないものだ。半年前の『鏡獅子』で見せた右近のそれは、すでに踊ることと演じることのバランスなどという次元ではないレヴェルに達していたが、この「吉野山」も期待にたがわず完成度がたかい。

すっぽんのさから出たそのうつむく姿がまず絵になる。壇ノ浦の戦物語でのあざやかな身体のキレ。扇を口にくわえての見得は、ゆっくりと流れるようでいつのまにかツケできまる。すべての所作において気が抜けず、つながってひとつのフレーズになっている。踊ることがそのまま演じることになっている所以である。右近の身体だけではなく、そのまわりの空気もまた「吉野山」を演じているかのような不思議。

花道への引っ込みは、いちどだけわずかに狐手を見せて、悠然と歩いて入る。見まわす顔のそのふわりとしたあかるさが、吉野の山の満開の桜をわたしたちにもういちど見せてくれた。

静御前を演じる中村米吉も、右近の影響かこちらも好演。花道の出からしてリアルなものが剥れおちていて、まるで人形のような印象をうける。この人形っぽさが静の超然とした格をつくりだし、かつ忠信との「男女のカップルでない」道行の距離感をつくることに成功しているのだろう。忠信がすっぽんから姿をあらわすおりの、よろけるように気を失う姿も美しい。なんといっても右近の忠信と、きまりきまりでイキがぴったりなのもよい。

逸見藤太は中村種之助。右近につられてか、花四天たちまで気が入っていて気持ちがよい。

 

「川連法眼館」は川連法眼の戻りから。川連法眼の嵐橘三郎とその妻・飛鳥の中村歌女之丞の、ベテランらしいふたりのおちついたやりとり。とかくあいまいになりがちなこの場面がきわめて明瞭である。

本物の佐藤忠信(尾上右近)が出る。歩き方からしてかなり手強い役作りは、後半の狐忠信との対比をもとめてか。義経に「静はいかにいたせしぞ」と言われて訝しがる忠信だが、ハラで受けてわずかに首をかしげるのみなのもよい。駿河・亀井に挟まれての引っ込みまで、首尾一貫している。

義経は中村梅玉。格と気品をうしなわない、お手本のようなさすがの御大将。脇息をつかっての「黙れ、忠信」の詰問は勢いにまかせず、そのかたちだけで見せるうまさ。静御前の中村米吉は、ひきつづきこの場もよい。義経に忠信のことを聞かれ不信をつのらせるのを、セリフのテンポと間だけでつくるうまさ。そもそも米吉は根本から発声がかわった。亀井六郎に坂東巳之助、駿河次郎に中村隼人。ふたりとも今月の二段目で知盛を演じた役者であり豪華だが、さすがきっぱりと折り目正しく好演。

さて後半の狐忠信だが、ここでの尾上右近は手放しによいとは言いがたい。「吉野山」でみせたあの身体性からすれば、さぞあざやかに演じるだろうと思いのほか、いささか精彩をかく。まず狐言葉が徹底されていない。その所作も義太夫(葵太夫)の緩急にたいして散漫できまらない。すべてが中途半端になっているのだ。右近ほどのウデがありながらこれはどうしたことかと思っていたが、どうやら右近の演じようとしている狐忠信が、わたしたちの知っているそれとはどうやら違うらしいと気がつく。

右近の芝居はセリフも所作も、まるでふつうの和事のそれである。狐を強調せず、人間とおなじドラマとして演じようとしているのではないか。和事の忠信なのだと思ったとたんに納得できる。だが型とはおそろしいものだ。違う狐忠信を演じるなら、型をあたらしく作らなければならない。せっかくの感動の場面でしばしば観客が笑うのは、その齟齬が違和感を生んでいるからである。もちろん若いうちは、教えてもらった型のとおりに演じるのが礼儀だ。だがそれなら演じる人物(狐だが)もそうでなくては破綻する。この狐忠信を評価するのは、おそらく再演されたときだろう。音羽屋型にははまりきらない右近ならではの狐忠信が、そのとき観られるかもしれない。


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