名古屋の小劇場系劇団「優しい劇団」の東京公演。初日を観る。
アクティングエリアあるのはちいさなホワイトボードひとつのみで、あとはなにもない。ほんとうになにひとつない。会場の照明機材は演技のあいだまったく使用されず、明かりを発するのは五人の俳優がひとつづつ手にもったちいさな四角いLEDライト。それが自分自身やほかの俳優、また文字が書かれたホワイトボードを照らすのが唯一の照明になる。
星が見えなくなってしまった近未来を舞台に、五人の俳優(とひとりの日替わりゲスト)がかぞえきれない役々を演じわける二時間弱。マシンガンのようにやすみなく打ち放たれる、おびただしいセリフの怒涛。ときには外郎売もかくやというほどの長台詞があり、ときには七五調の渡り台詞になる。意味がとおったりとおらなかったりの言葉の応酬。すきあらばいたるところで顔をのぞかせる、駄洒落への転落を確実に踏みはずしてしまったすてきな言葉遊びの数々。
これほどの作品、書くほうも書くほうだが、演じるほうも演じるほうだ。作・演出であり出演者も兼ねるのは尾崎優人。尾崎は演じながら、照らしながら、どうじに手元のスマートフォンで音響キューさえコントロールしている。この日の出演陣は、尾崎のほかに千賀百子、石丸承暖、下野はな、池田豊。日替わりゲスト出演者は新部聖子。彼らはもはやアスリートといってもよい。こういったタイプの演劇を苦手とする観客も、おそらくはその熱量・技術にあっけにとられながら拍手をおくることになるだろう。なかでもとくに下野の口跡のよさ、またどんなにセリフを連打していても役を演じることをはなれないそのハラに感銘をうけた。
登場人物たちはみな、空を見あげて見えない星を見ようとする。見えないものを求めることの価値と困難について、さりげなくふれるセリフもある。そこでもとめられる星の光というのは、見えなくなりつつありながら、それでもなお「寂しい」わたしたちが求めてしまう希望である。だからこそ、この令和の日本で若い俳優が演じるべき意味がある演劇になっている。
ベートーヴェンの「交響曲第九番」いわゆる「第九」の第四楽章にもちいられているフリードリッヒ・フォン・シラーの詩は「歓喜によせて」であるが、これがなんども「歓喜」と「換気」をかけたギャグとしてもちいられている。ただもちろんこれは、ただの「換気」のためだけに導入されたわけではないだろう。尾崎は「Freude schöner Götterfunken」とあまりにも有名な冒頭部分を歌っていたが、そのずっとあとの段において、まさにこの作品を通底するおおきなテーマが歌いあげられているからである。
跪かないのか、幾百万の人々よ?
創造主を感じないのか、世界よ?
輝く星々の彼方に探すのだ
その彼方に必ずやおわすのだ
(シラー「歓喜によせて」より)

