黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

新国立劇場『ヴォツェック』(オペラハウス)

 

新国立劇場のオペラ『ヴォツェック』の上演は、いくつかの意味がある。

まずはこのオペラが初演されて100年という節目の年にあたること。この作品が一世紀をへていながら、いまだに古びない作品であることを再認識できるからである。

もうひとつはおなじ東京において、演劇版の『ヴォイツェック』が同時期に上演されていることだ。東京芸術劇場で上演され、全国をまわったのちふたたび凱旋してきたその公演についてはこちらで書いた。ストレートプレイとしての『ヴォイツェック』とオペラ『ヴォツェック』。おなじビューヒナーの原作をもとにした作品を前後して見くらべられるのは、なかなか得がたい機会である。

東京芸術劇場の『ヴォイツェック』はビューヒナーのオリジナル(そもそも未完成なオリジナルをそのまま上演することは不可能なのだが)ではなく、もはや原型をとどめないほとリライトされたジャック・ソーン版だが、おそらくビューヒナーの書いた世界観によりちかいのは、アルバン・ベルクのオペラ版だろう。ト書きや場割も整理されているとは言え、可能なかぎりオリジナルのテクストを尊重してつくられているからである。

 

今回のリチャード・ジョーンズの新演出は、アメコミの世界を日本の制作会社がアニメ化したようなトーンで統一されている。いささか繊細さにかける照明とあわせて、そのポップなテイストは好みがわかれるだろう。舞台上にいくつかのユニットを出し入れして、全十五場の転換に対応するスタイル。ただし殺し場だけは照明で表現される池とちいさなベンチのみ。

好意的に評価できるのは、主役のヴォツェック(とその妻マリー)以外の役々が(そのわざとらしい典型的なオペラ芝居がどこまで演出によるのかはわからないが)徹底的にカリカチュアライズされていることである。この演出におけるヴォツェックはその貧困も狂気もほとんど強調されることがなく、彼こそが作中でもっとも常識的で道徳的な存在としてえがかれる。それと対照的に彼をとりまく周囲の面々こそが、人間性を失った現代社会そのものとして現前する。だからこそ彼らを排したヴォツェックとマリーのみの殺し場は、ほかにくらべてきわめてリアリティのあるクライマックスになっている。ここだけ舞台装置のユニットがないのはすでに書いたとおりだ。

その反面、あまりにドラマが唐突と感じる場面もすくなくない。たとえば第一幕の幕切れでマリーが鼓手長に身をまかせてしまう過程は、(音楽ではかなり効果的に書かれているのに)あっけないほど不自然である。もしそれがわざと相対化したシーンなのだとしたら、それを舞台上でヴォツェックが見ていなければおかしいだろう。(見落としたのかもしれないが)

新国立劇場の芸術監督である大野和士の指揮はけっして精緻とは言いがたいが、アンサンブルを捨ててでも表現主義的とも言うべき音楽を聴かせる。ただしそれはポップなテイストの舞台とはまったくかけはなれており、最後まで音楽と舞台の目指す方向は一致しないように思われた。

歌手陣のなかではタイトルロールを歌うトーマス・ヨハネス・マイヤーが圧倒的に素晴らしい。そのゆたかで幅広い声と正確な歌唱テクニックにより、このオペラに音楽的な満足感をもたらしている。狂気の人としてえがかない今回の演出にも合致しているだろう。その映画俳優なみのていねいな(そして無駄のないシンプルな)演技もまた賞賛されるべきもの。

マリー役のジェニファー・デイヴィスの美声とオーケストラに負けない強さを両立した歌、大尉役のアーノルド・ベズイエンの手に入った安定感もよかった。