黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

ヌトミック『彼方の島たちの話』(シアタートラム)

 

ヌトミックの新作『彼方の島たちの話』の初日を観る。世田谷パブリックシアターの「フィーチャード・シアター」のプログラムの一環としての公演。作品としても上演としてもたいへんクオリティがたかい。

作・演出の額田大志が主宰するヌトミックは、そのテクストの音楽的遊戯とも言うべき表現形態が独特だ。それが今回の舞台においては、かなり表現内容に表現形態がよりそっているように思われた。

ここで語られるのは自死によって閉ざされてしまった親と子の対話である。死んだものはわたしたちの記憶のなかにいる、などとよく言われることがある。だが生きているもののなかにあるのは、死んだものの記憶だけではない。たとえば「そうであったかもしれない」過去の声、そして「そうであるかもしれない」未来の声。それらの「声」が語りかけ、死んだものはわたしたちのなかで生成されつづけていく。記憶とはべつの「声」として亡きものが生成されていくのだとすれば、それはもはやわたしたちにとって不気味な他者である。劇中でなんどか発せられる「もし」というセリフがこころに響く。その「声」が舞台に存在するためには、そしてそれが執拗にくり返えされかさなりあうためには、これはやはり音楽劇ではならなかったのだ。

シアタートラムのブラックボックスのなかに、大小さまざまなユニットで組まれたアシンメトリーな舞台。下手のやや高いところにドラムセット。舞台奥ほぼ中央には黒いパネルが上方から吊られている。上手側の柱にはサブパネルが設置されている。二時間の上演のあいだこのパネルにすべての発話されるテクストが投影される(サブパネルには音楽に関するト書きが出る)のだが、下方から次々にスクロールされていく四行のテクストがつくりだすリズムがじつに面白い。さきに書いた死んだものの「声」である不気味な他者が生成されていくさまを、わたしたちが文字どおり「目のあたり」にするからである。

劇中なかばで「死んでないもの」と名づけられたミュージシャン三人が、アクティングエリアへ進出しセリフを言う。彼ら「死んでないもの」が亡霊を現前させるさまは、まるで古典芸能における音楽劇の究極である夢幻能にほかならない。音楽劇であることが舞台の様式に担保をあたえ、音楽劇であることが発話されるテクストの強度を増す。ヌトミックらしい音楽劇というこだわりが、これほど必然性をおびたことがかつてあったのだろうか。額田大志のつぎの舞台が楽しみになった。

 

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