黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『未練の幽霊と怪物‐「珊瑚」「円山町」‐』(KAAT 大スタジオ)

 

岡田利規の『未練の幽霊と怪物』は、「挫波」「敦賀」の二作がコロナ禍での紆余曲折をへて五年前に劇場で上演された。今回はそれにつづく「珊瑚」「円山町」の二作の初演となる。これらは伝統的な夢幻能の形式をかりた作品であり、シリーズとしての『未練の幽霊と怪物』というタイトルも、まさしく能という演劇の本質を端的に言いあらわしたもの。今回上演された二作は、いずれものれまでより能のスタイルを意識的に踏襲しているように思われる。

舞台装置は二作品とも共通。グレーのパンチカーペットが敷かれた正方形のアクティングエリアは、言うまでもなく能舞台を模したもの。舗装道路を思わせる白線と、菱形の印(横断歩道があることを車に知らせる予告表示)がえがかれているのが面白い。そこから下で奥へと斜めに伸びた橋懸。それにそって三つの三角コーンがおかれているのは、能楽堂における三本の松を模したものだろう。

前半の「円山町」は、一九九七年のいわゆる東電OL殺人事件をモティーフにしている。ワキの「新社会人になる女」(七瀬恋彩)が渋谷の円山町を歩いていると、前シテの「辻に立つ女」(小栗基裕)に出会う。彼女のつぶやく言葉と「花を手向けに来た女」(片桐はいり)の語りによって、それがいまだ捕まらない誰かに殺された女の幽霊であることがわかる。悔いをのこしその未練を語るのが後シテの(道玄坂地蔵尊)であるというところが定型をはずれていて意外性があるが、やや平板な解決とも。

後半の「珊瑚」は、沖縄県の辺野古における失われた珊瑚礁の問題をとりあげる。ワキの「物書きの端くれ」(石倉来輝)と案内人のワキツレ「比嘉さん」(清島千楓)が辺野古の大浦湾にやってくると、不思議なたたずまいのシテ「懐かしむ女」(アオイヤマダ)が突然あらわれる。アイ「近所のひと」(片桐はいり)の話からわかるが、その女の正体は基地移設にともない枯れてしまった珊瑚の霊だった。『西行桜』や『芭蕉』など本行の能においても草木精霊物とよばれるジャンルがあるが、これもそういった系譜につらなるものと言えるかもしれない。珊瑚を擬人化することで、むりやり移住させられたり環境をかえられたりした人々のメタファーにもなっており、そう考えると謡の言葉も重層的に聞こえる。

このようにきわめて意識的に能の形式に沿ってつくられた二作だが、だからこそいくつかの違和感をもたざるをえない。それは能のもっているフィクションの立ちあがりかたに関係している。

夢幻能においては、ワキがワキ座(正方形の舞台の上手手前側の角)に座して舞台中央を見る(作品によってウトウトしたり、物思いにふけったりするわけだが)ことによって、その視線の延長線上にある橋懸の奥からシテを呼び込むことが重要な意味を持っている。シテはワキの意識のなかにあらわれることで存在するからである。シテは情報的な存在であり、幽霊的な存在として舞台にいる。だが『未練の幽霊と怪物』においてはワキはたしかに始終シテを見てはいるのだが、それはあらわれたシテを見ているのであって、ワキが見るからシテがあらわれるのではない。つまりここでのシテは、ワキの意識とは無関係にやってきたのである。ではそれはどのように舞台に召喚されたのだろうか。

またシテの演じ方についても違和感がある。「円山町」の小栗基裕も「珊瑚」のアオイヤマダも、身体の発話としてはきわめて雄弁であり圧倒的に目を引く素晴らしいものだ。岡田利規的(またはチェルフィッチュ的と言うべきか)な過剰な身体の動きの枠をはるかに超えたその饒舌なパフォーマンスは、ときに謡の詞章へ当て振りかと思うほど具体的である。だがその身体がはげしく語れば語るほど、シテの肉体はあらたなものをまとえなくなる。ワキの目によってシテが舞台に召喚されたように、能においてからっぽな「入れ物」であるシテの身体は、わたしたち観客の視線によってさまざな情報をまとう。謡の詞章が観客の想像力と目という装置によって、シテの身体に投影されるのだと言いかえてもよいだろう。だがこの二作のシテたちは、いずれも謡の詞章をみずからまとって舞っている。そこにはわたしたち観客の目が機能する余地はない。

もちろん夢幻能と表現がことなっていてかまわないし、むしろそれは当然だろう。だがそれなら『未練の幽霊と怪物』は夢幻能だと銘打たなければよいのではないか。たしかに形式と構成は夢幻能かもしれないが、その表現方法はむしろ現在能(夢幻能とことなり生きている人物をえがく一般的な演劇に似たべつの能のジャンル)にちかい。未練をもってなにかをうったえているものを召喚するのならば、いまひとつ夢幻能のもつ本質にかえったアイディアがあってもよいのかもしれない。

夢幻能の本質をもっとも体現していたのは、もしかしたらコロナ禍で映像をまじえた特殊な状況で上演された「座波」「敦賀」の初演なのかもしれない。現代の演劇としての能を、ひとつのジャンルとして確立しつつある岡田利規、まだまだあらたな形を見せてくれる余裕があるのではと思われた。

 

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