三月歌舞伎座の夜の部は河竹黙阿弥の『三人吉三巴白波』の通し上演。黙阿弥の作品のなかでも戯曲としての完成度がたかく、かつ黙阿弥らしい因果のドラマを現代的な視点から読みこむこともできる傑作である。
序幕はいつものように「大川端の場」から。もっとも様式的であり、七五調のセリフがうつくしい音楽劇といってもよい名場面。さすがになんども演じている中村時蔵のお嬢吉三は、安定感のあるセリフが耳に心地よい。ただしいささかサラサラしすぎていて味わいに欠ける。有名な「月も朧に」のセリフの前に片足を杭にかけるその素っ気なさ。またセリフが高音になったときに拵えごとの女と地の吉三との演じわけがあいまいになるのは、女形がお嬢吉三を演じるときに共通の難点だろう。
お坊吉三は中村隼人。二枚目役者として近年より芝居のうまさにみがきのかかる隼人だが、この場での七五調はたっぷりと古風に聞かせる。四半世紀前に中村吉右衛門が演じたお坊吉三のそれを思いだした。
この日の和尚吉三はダブルキャストで坂東巳之助。まずは低音から高音まで自在につかった声が、堂々として和尚吉三にぴったりである。三人のなかの年長者としての説得力があり、それでいながら若者らしさも感じられるのがよい。
二幕目の「割下水伝吉内の場」になる。この数年は「大川端」だけかそれに「吉祥院」以降がつけられた半通しばかりで、令和元年以来ひさびさにこの場が組み込まれている。やはりこの場があることでドラマが明確になり、かつその後の場面にも深みがでる。
そしてなんと言っても中村歌六の土左衛門伝吉が傑出している。いまではこのひとをおいてはありえないほどのハマリ役。むかし犯した悪事がすべての元凶になっていることを知った伝吉は、因果とその応報が支配するこの作品の構造そのもののような存在。七年前とくらべても格段に立体的なセリフのうまさはもちろんだが、ちょっとした思い入れが明確なのが特徴。和尚吉三の「首にならにゃ会わねえぜ」という去りぎわの言葉をハラでグッと受けるその芝居が、後につながることは言うまでもない。
この場でもうひとつよいのは嵐橘三郎の八百屋久兵衛。言語明瞭、意味も明瞭、滋味のあるさすがの名演。
「お竹蔵の場」になる。戒めの数珠をみずから切っての伝吉の啖呵の力強さ。むかしどれだけの悪人であったか、そのほりの深い凄みはこの歌六の右に出るものはないだろう。残念なのはその伝吉に相対するお坊吉三の隼人。「大川端」であれほどよかったセリフが、とつぜん新作歌舞伎かなにかのようにリアルに軽くなる。花道の去りぎわに証拠の小柄(こづか)を発見されての反応も、ずいぶんと小物に見えてしまう。
休憩をはさんで三幕目は「吉祥院本堂」「裏の湯灌場」「もとの本堂」の三場。もっともドラマティックな場面であるが、それだけに役者の芝居のスタイルが問われる場でもある。
三人の吉三たちのうち時蔵と隼人は、古典的なスタイルよりもやや感情にまさる芝居を意識しているように見える。あの時蔵がというのが意外でもある。それはそれでうまくいっているとも言えるのだが、たとえば再会したふたりが「おめえに会いたかったよ」と言いかわす場面などの、この場独特の倒錯的な風情というものは失われている。またセリフのリズム感が希薄なために、割りゼリフの到達点であるはずの「思えば儚い身の上だなあ」での陶酔感は希薄。また「覚悟はいいか」「未練はねえぜ」もリアルで内向き。
それにくらべ巳之助の和尚はどちらかといえば古典的な演じかたを優先しており、随所でハラで受ける芝居が成功している。だがそれもしだいに心理にたよった芝居になっていく。このあたりのスタミナは松緑などはさすがである。
それはそれでよいかもしれないが、それではこの作品が個人の悲劇の集合になってしまいかねない。河竹黙阿弥がはりめぐらせた因果の網は複雑にからみあい、登場人物たちが否応なく屈せざるをえない世界として立ちはだかる。その圧倒的なスケール感は、個人の心理ドラマとひきかえにどこかへ消えてしまうように思われるのだ。
もちろんあたらしい試み、あたらしい解釈は大歓迎である。ただそれならばそれにあわせて演出や大道具をも再検討すべきだろう。それがコクーン歌舞伎であり、より極限には木ノ下歌舞伎もある。
おとせを演じるは、その名前で舞台に立つのは最後になる尾上左近。妹らしいかわいらしさや世話味があっていいが、夜鷹を生業にしているにおいはうすい。十三郎は市川染五郎。
大詰の「火見櫓の場」はひととおり。雪の降るなか、勢いにまかせない風情のある芝居を期待したい。
