黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『風のセールスマン』(SCOOL)

 

昨年おなじSCOOLでヨン・フォセの『だれか、来る』で演出家デビューをした佐々木敦の演出二作目、別役実の『風のセールスマン』を観る。出演するのはセールスマンを演じる矢野昌幸ひとり。

 

SCOOLのほぼ正方形のスペースの三辺をコの字形の観客席とし、のこる一辺の壁際に照明音響のオペレーション卓がもうけられている。アクティングエリアはそれらにかこまれた部分だが、その空間のまた中央に上方からプロジェクターによってさまざまなもの(地図やらセールスマンを見つめる顔やら)が投影されるエリアがある。

白いピタピタのあやしげなスーツに身をつつんだセールスマンはそのなかで、みずから持ち込んだアタッシェケースや傘のほか、スタッフ(というより演出家自身)が差しいれるダンボールや脚立などをつかって縦横無尽に演じることになる。

舞台のつかいかたとしてとくに面白いのはその脚立だ。おおきく開いてはしご状態にされたそれは、床と天井の梁とのあいだに立てかけられ、セールスマンの駆けのぼる電柱にみたてられる。セールスマンはその最上段まであがり下界を見おろすのだが、あがったところで天井に阻まれ頭打ち。その不穏な窮屈な姿が高所の不安定さとあいまって、会場のスケール感をはるかに凌駕しているからである。

照明と音響の役割の倒錯もよい。開始前からごく一部の例外をのぞいてビートを刻みつづける音響の持続は、まるで地明かりのように空間を埋めつくしている。ぎゃくにたとえばパトカーのサイレンのかわりに照明がエフェクトをかけるなど、そのつかいかたも面白い。ラストへの光と音の洪水は、もはや佐々木敦演出の代名詞と化すのだろうか。ビルのほかのフロアから苦情がこないかぎりやりつづけてほしい。

 

そこで繰りひろげられるのは、居所なきもののアイデンティティをめぐるものがたり。他者の目から異質なものとして見つめられつづけるもののものがたりでもある。笑った顔という記号とそれを埋める意味との齟齬は、言いかえれば言語のすれ違い、コミュニケーションのすれ違いと言ってよい。たとえ鎖でつなぎとめようとも、所詮は「住み所さへ定めなき」存在がつきつけるその意味は、言葉にするにはあまりに現代的でセンシティブな問題だった。

そういう意味で矢野昌幸は、まさにこの佐々木敦版『風のセールスマン』を演じるべき俳優だった。その独特のキャンバスたる顔のうえでは、笑いも、恐れも、また絶望も、すべて定めなくはがれおちていくからである。

 

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