黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

銕仙会青山能『藤戸』(銕仙会能楽研修所)

 

ひさびさに青山の銕仙会の能楽堂へでかけて『藤戸』を観たが、この名作にふさわしい見ごえのある名演であった。

まずはこの演目らしい重厚さにみちている。シテの馬野正基、ワキの福王和幸のゆたかで深い声がじつに切実にひびく。大ベテラン曾和正博の小鼓の音もきわめて重厚で『藤戸』にふさわしい。これは現在能でありかつ夢幻能でもある藤戸の特殊性にもかかわっている。殺された若者の霊である後シテにたいし、前シテはその息子を殺された母親であり、ワキである佐々木盛綱はまさに生きている彼女に相対することになる。その「いまここ」性とも言うべきリアリティを表現するのに、この重々しさというものはきわめて重要だ。

つぎに特筆すべきは、前シテである母親の姿がまだ若い女に見えることである。使用された面はどちらかといえば若めに見える曲見(しゃくみ)で、鬘も白髪混じりではない黒髪。やり方によっては老婆にもなるこの母親が若く見えることで、犠牲となったその息子がそれだけ若かったことがわかり、作品の悲劇性が強調される。

ワキの「取って引き寄せ二刀さし」でおもわず左手をすばやくあげてシオり「そのまま海に沈めて帰りしが」との言葉をかみしめるイキのよさ。地謡のなかでスクッと立ちあがる勢いにはハッとさせられる。リアルな演じ方そのものから、若い母親の消化しようのない悲しみと苦しみが見えるのがうまい。「我が子かえさせたまえやと」の地謡ででワキに掴みかからんとするその姿は、なかなか感動的だった。

後シテになって、「をりふし引く汐に、引かれて行く波の、浮きぬ沈みぬ埋木の」で橋掛をただよいつつ柱に縋り崩れおち、「藤戸の水底の」で恨みにとりつかれた顔をあげるまで、そのおそろしい表現をささえているのは、馬野の卓越した身体の技術にほかならないだろう。

アイの「われらのようなもの」にとっても涙を流さずにはいられないというセリフは、いまのこの世界情勢だからこそ切実にひびく。戦争をおこす権力者にたいしての、抗えないままに犠牲となる庶民の声の代表だからである。それは権力者にたいして物申すことが許されているはずの現代において、声をあげることがはばかられるわたしたち自身の声でもあるからだ。

 

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