黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

錦秋十月大歌舞伎第二部(歌舞伎座)

 

片岡仁左衛門が東京ではひさびさに盛綱を演じる『盛綱陣屋』が、脇までもれなく豪華な配役ということもあって圧倒的。

中村吉右衛門の盛綱が戦国の世の悲劇を生きる「もののふ」であったのにたいして、仁左衛門の盛綱は「情」に徹して演じられる。まず第一に母・微妙への親子の「情」である。「親の役目を子がつとむる」ところをあえて母親に嫌な役目を負わせなければならない。その切々なる説得のなかに、理不尽な行いを母親に頼まなければならないことへの苦渋があふれている。いわば母親への甘えとも言うべき内面を隠そうともしない。それでいて弱々しさが微塵もないところが不思議な特徴と言える。

また終盤で北条時政を送りだしたあとの場面においても、高綱の妻・篝火を呼び込む瞬間から愁嘆が前面に出る。こんなに泣きが入れば流れてしまうのがふつうだが、見事な口跡でセリフを立体的に歌いあげる仁左衛門の技術がその様式生を失わせない。「伯父さま」と小四郎に呼ばれて扇子で膝を叩くのが、なんのタメもなく食い気味なのも気持ち本位。

それに先立つ首実検も、言うまでもなく絶品。ただしその表情にうかぶ内面の変化は、ここでは最小限におさえられている。首を見た瞬間の不審、偽首をやりおったなという笑み、だが待てよと小四郎を見るさりげない切り替え、花道を見てすべてを悟る衝撃。いずれも派手なことはひとつもなく、ハラとわずかな間で表現するところがさすが。

初役で微妙を演じる中村萬寿は、こちらも厳しさより情のある演じ方で仁左衛門の盛綱にふさわしい。「吉野川」の定高においてもそうだったが、現代の観客にも共感できる家族の情をみせながら、どうじに時代物として成立させるのが萬寿のよさである。

片岡孝太郎の篝火、中村時蔵の早瀬も好演。もっともこの二役は逆のほうがぴったりとはまるかもしれないが。威厳あり手強さじゅうぶんの中村歌六の北条時政、立派に仁左衛門とわたりあう片岡愛之助の和田兵衛、あざやかな坂東巳之助の信楽太郎と中村種之助の伊吹藤太と、すべての役が高水準。

中村梅枝の小四郎、中村秀乃介の小三郎のふたりの子役も大当たり。ことに梅枝は子役の演技の表現方法の枠のなかで、最大限の芝居を見せて泣かせる。落ち入るまえのほそく絞りだす声を、しっかりとした息のつかい方でささえているのがわかる。

同種の『熊谷陣屋』などとくらべるといささか並列的でどこかダレることもある『盛綱陣屋』だが、こうもそろって名優の名演を見せられてはあっというまの二時間だった。

 

休憩をはさんで三津五郎家につたわるめずらしい舞踊『山帰強桔梗』を、坂東巳之助で。見立てのおおい構成にしては地味な演目。ウケをねらわずかっちりと踊る巳之助がえらい。

 

 

錦秋十月大歌舞伎第一部(歌舞伎座)

 

『義経千本桜』の「川面法眼館」を八代目尾上菊五郎の忠信で。前半の本物の忠信がよいのは、吉右衛門ゆずりの生締の役をいくつも経験してきたからだろう。花道から登場して、七三で刀を持って腰をおとしてきまった姿がまずすばらしい。「静をいかがいたせしぞ」と義経に問われて首をかたむけ不審がるさりげなさ。亀井が入っていった揚幕をかたちよくぐっと見込んで、出てきたのが静ひとりとわかったときのイキひとつで見せる動揺。引っ込みまであざやかのひと言につきる。

後半の狐忠信は、狐言葉のお約束は踏襲しながらもそれを強調しすぎないのが特徴。ちょうど一年前の十月に尾上右近が狐忠信を演じたときも感じたものと似ているが、どこか和事めいた人間のドラマとして演じようという意図を感じる。いささか地味ではあるが、今後なんどもやられるうちに熟していくであろう可能性を思わせた。

義経は七代目尾上菊五郎。歩いて出てこられるのかと心配したが、自分の足でしっかりと奥から出る。ただしそのまま座れず床几を使用するために、脇息をつかう型はなし。よい意味で力が抜けて、御大将らしいおおらかさと格があってよい。

傑作は中村雀右衛門の静御前。なんども演じている役だが、今回がとびぬけてよい。雀右衛門らしい天性の赤姫らしいボワッとしたやわらかさはますます健在で、それでいてひとつひとつの形がきっぱりときまる。鼓と脇差を持ちかえて狐忠信を詮議する場面など、無駄のない動きが美しい。「さてはそなたは狐じゃな」をさほど間をおかずに言うのも、緊張感が途切れずうまい。その前に狐自身がその正体をなかば明かしたセリフを言っているからである。

河原崎権十郎の川連法眼、上村吉弥の飛鳥など、脇もそろっている。

そしてなにより幕切れに法師を出さないのがなにより。蛇足のような間抜けな立ち廻りがなくなってすっきりとした。木に駆けのぼる(ように見せるために仕掛けをつかう)子供だましのかわりに、花道を「翔ぶが如く」駆け入るほうがいいにきまっているだろう。

 

 

錦秋十月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

第三部では『義経千本桜』の「渡海屋・大物浦」で楷書の時代物を観ることができる充実。

「渡海屋」は弁慶の出から。カットされることもあるこの冒頭だが、中村吉之丞の弁慶がよい。荒々しいだけではなく、その重厚な声も外へ出てからの思い入れのていねさもあわせて好演。坂東亀蔵の相模五郎もよく、ベリベリとした端敵らしい強さと、とぼけたおかしみを感じさせる間のよさ。松緑一座をささえるふたりの初役とは思えない規範のような芝居にまず満足させられる。

尾上松緑の知盛は花道から出るその後姿が、以前演じたときよりはるかにより貫禄があってよい。武の字の講釈で の「矛を止るとか」よりも「書くそうにござりまする」に重きをおくが、いささか凄みがうすれるようにも思われる。安徳帝を前にしての舞はサラリと。花道を入っていく姿が重心がひくく立派。

中村時蔵の典侍局は、どこにもすきのない完成度。「こう言ううちもう日暮れ」と見まわすだけでうまれる空気であったり、日和見のしゃべりのあとのハッとわれにかえる一瞬の間であったり、完全に舞台を支配している。この時蔵の典侍局のよいのは、とにもかくにも効果的な間をうまくつくりだしていることである。その間がひろい歌舞伎座の舞台を、一枚の絵として切り取っている。セリフも所作もうまいのはもうあたりまえというこの驚異の女形が、いよいよ歌舞伎座の立女形になろうとしているのを見るように思われた。

「奥座敷」も時蔵がよい。注進を聞いているあいだの顔をかたむけた姿が、抜群に美しい。「つづけばつづくものかいなぁ」の嘆きのうまさも。安徳帝を抱きかかえてもまったくぶれない体感の強さはさすがである。最後の「いかに八大龍王」のセリフは岩場のうえだが、この時蔵の支配力ならむしろ舞台中央で言うのも効果的かもしれない。そして「守護したてまつれ」と言ったあと、安徳帝の顔をじっと見つめるのもよい。これも支配力をもった間のひとつである。亀蔵の相模五郎、中村萬太郎の入江。

「大物浦」になり、松緑の知盛の特質がより明確になる。薙刀をふりまわすていねいさが目についたと思えば、武者たちを花道へ追い払っての七三でのきまりは、幽霊手を見せずわずかに口をひらくだけ。「生きかわり死にかわり、恨みはらさでおくべきか」の迫力を例外にすればセリフもきわめてていねい。絶叫もなく発せられる言葉そのものに語らせるような三悪道のくだりもよい。総じて松緑の知盛は独特なほどにきわめて端正であり、そこにはまるで能を見るかのような厳粛さがある。松緑はこの知盛を亡き富十郎に教えてもらったとどこか言っていたが、なるほどそうだろうと思った。リアルな感情のドラマが見える仁左衛門の知盛とも、ギリシャ悲劇のような壮絶な吉右衛門の知盛ともことなる、次世代の規範となるべき松緑ならではの知盛が完成しつつある。ただし碇をかついての入水の見せ場はもったいない。知盛のかつぐ碇の重さは彼が背負って死んでいく源平の因果と怨念そのものだ。ここで見えるべきはそのとてつもない重さであり、力の表現ではないはずである。

幕切れに弁慶がひとり花道にのこって法螺貝を吹く。ここでも吉之丞の弁慶がよい。祝の去ったあとの舞台をしめるにふさわしいその真摯な重厚さは、吉之丞の師・吉右衛門を見るようだ。もっとおおきな役で吉之丞の芝居を見たいと思う。

 

 

国立劇場『本朝廿四孝』(新国立劇場中劇場)

 

国立劇場が二十七年ぶりに『本朝廿四孝』の「筍掘」を上演。国立劇場が、というよりも歌舞伎の演目としてとりあげられること自体が二十七年前のその公演以来となる。『本朝廿四孝』といえば「十種香」ばかりが上演され、それにつづく「奥庭」がまれにつけくわえられる程度だ。二十七年前の「筍掘」は(先代團十郎と鴈治郎時代の坂田藤十郎の共演もあって)なかなか見応えがあり面白かった記憶があるが、ひさびさの上演となった今月も観ておくべき舞台になっている。

もちろん、なかなか上演されないのには理由があるだろう。「十種香」がちょうど一時間程度の一幕で完結した場面として楽しめるのにくらべ、今月上演される場面は、どこかひとつの幕だけではドラマの起伏や見どころを形成しづらい。いくつもの場面がつらなって、はじめてどんでん返しのミステリーのようなドラマがたちあがる。そしてそのドラマも役者の語る言葉によって見えてくるところがおおく、歌舞伎演目としてはいささか地味なのもたしかだ。

 

「諏訪明神」の場は横蔵と長尾景勝が出会う重要な発端になるが、いささか空回りして見える。横蔵の中村又五郎は酔っている役とはいえ、セリフが上滑りして新劇めいているのがもったいない。立ったままで賽を振るのも形にならない。景勝を演じる坂東彦三郎は、いささか悪役に見えすぎるのに違和感。花道を行こうとする横蔵をよびとめて「似ている」とつぶやくが、そもそもふたりは似ていないので場面としてきまらない。この場はさすがに筋をとおすだけになってしまっている。この場にかぎって言えば、大道具も国立劇場らしからぬチープさ。手水舎が中途半端にななめなのも歌舞伎のお約束的にはおかしいし、花道も客席もまっすぐではない新国立劇場中劇場においてはよけいにそれが変に見える。

つづく「桔梗ヶ原」は傑作である。奴たちがなにもない地面を鎌で刈ろうとする冒頭こそ気が抜けて噴飯物だが、市村萬次郎の唐織と市川齋入の入江が登場したとたんに舞台がしまる。萬次郎も齋入も、その年齢をまったく感じさせない格のある立ち姿がまずすばらしい。そしてセリフのこのうえない明晰さと立体感ある組み立てによって、一瞬も見逃せない言葉の鞘当を楽しめる。つづいて出る片岡松之助の高坂弾正と中村松江の越名弾正もよく、とくに松之助がこういった生締めの立役を演じることはほとんど見たことがないように思うが、そのセリフのさわやかな口跡に驚かされる。歌舞伎好きなら一見の価値がある一幕。

 

休憩をはさんでいよいよ「勘助住処」の場になる。歌舞伎の演目のなかでも、ここはとくに伏線やら「実ハ」の戻り(本性をあらわすこと)が複雑にからみあっている。そしてそれがけっしてあざやかに成功しているわけではなく、じつにわかりにくい。横蔵の理不尽な傍若無人さも、それを許して甘やかす母・越路の態度も、実の子をかんたんに手にかける慈悲蔵の行動も、種明かしを聞けばわからなくもないが、本質的なところで必然性がないために、終盤で得られるカタルシスがよわい。そしてこの場でも(生身の人間が演じる歌舞伎ではしかたがないが)やはり長尾景勝と横蔵が「面体格好うりふたつ」であるようには見えないし、見えたところで越路の態度もじつはおかしい。誰かがすこし台本や演じかたに工夫をほどこせば、もっとくりかえし上演される名作になるだろうに。

そんななかで役者陣は健闘。又五郎の横蔵はベリベリと敵役らしく見せる前半と、本性をあらわしてからの大時代な後半の対比がうまい。慈悲蔵の中村錦之助は、本来のニンにぴったりあった役を得て好演。ことに直江山城守として出るラストが爽快。慈悲蔵の妻・お種を演じる市川高麗蔵がとてもよく、泣き赤子ふたりに身を引き裂かれながら二重屋台から足を落としてきまった姿にハッとさせられる。

中村魁春の演じる越路という役は、歌舞伎の三婆のひとつ(ほかは「道明寺」の覚寿と「盛綱陣屋」の微妙)に数えられるが、この場面がそもそもあまり上演されないこともあって、効果的な型が完成されていない。それでも長尾景勝からの贈り物を見て、ハラでうけて空気をかえるのはさすが魁春。

 

f:id:kuroirokuro:20261005122521j:image

秀山祭九月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

夜の部の最大の見ものは、言うまでもなく片岡仁左衛門が歌舞伎座ではひさびさに十兵衛を演じる『沼津』である。今月は松本幸四郎と日替わりで十兵衛を演じているが、幸四郎が故・中村吉右衛門系の演出であるのにたいして、仁左衛門は上方系のそれ。ただし上方系と言っても鴈治郎・藤十郎系の古風でコッテリとした芝居ともまたことなる、独特の十兵衛だ。

仁左衛門の十兵衛を特徴づけるもののひとつは、そのはなやかな明るさだろう。序幕の「棒鼻の場」での平作との軽妙なやりとりにそれがあらわれている。平作に荷物をまかせるくだりはサラリとしている(吉右衛門はここで深い情を見せる)が、そのかわりに平作の足の怪我に薬を塗ってやる場面でのリアルなやさしさが強調される。つづく「平作住居」に場をうつしても自然体のサラサラとした芝居。それがガラリと様相をかえるのが、印籠をお米が盗んだことが発覚してから。心持ち本位の仁左衛門らしい、しっとりとした芝居になる。花道で言う「降らねばよいがなぁ」が、十兵衛の心のうちを語っていて絶品。「九州相良」と二度くり返されるクライマックスも、声を張るでもなく、あくまでギリギリの選択であることを感じさせる悲痛な声。

このあまりに内面に正直に演じられるリアルな芝居を、奇跡的なバランスで義太夫狂言たらしめているのが、後半を担当する人間国宝・竹本葵太夫の義太夫であることは間違いない。重厚で切実な葵太夫の声が、仁左衛門の芝居が義太夫狂言であることを担保している。ぎゃくに言えば、葵太夫の堅牢な義太夫によって、仁左衛門は自由に演じることができていると言ってもよい。大詰での「孝行の仕納め」などの絶叫は、壮絶なまでに聞くものをたじろがせる。

平作は中村歌六。吉右衛門の相手としてなんども演じているが、仁左衛門とはおそらくはじめての組み合わせ。序幕の出は茶店の裏から。荷物を持ってのヨタヨタ芝居を、三味線にのるようでわざとらしく見せないのが歌六流。後半も仁左衛門にあわせて自然体だが、大詰で十兵衛の脇差にふれたときにハッとするそのイキひとつで覚悟を見せる一瞬がさすが。

お米を演じるのは片岡孝太郎。ふたりの人間国宝のあいだにあって、十二分にわたりあって充実している。「お米はひとり」で十兵衛の寝床にしのび寄る身体のつかいかたの上手さ。印籠盗みがあきらかになってからのクドキは圧巻。義太夫狂言の女房役をやらせて、現在これほどコッテリと演じられる役者はほかにいないだろう。なにより世話女房でありながらもとは遊女であったという、その絶妙なバランスが、たとえば平身した首の角度などささいなところで感じられるのがよい。

八十二歳の仁左衛門もおどろくべき若さだが、その四歳歳上の片岡松之助の安兵衛もみごとにはまって好演。

 

『京人形』は尾上松緑の左甚五郎。まるで松羽目物かと思わせるような折り目正しいセリフと明るさ。中村時蔵の演じる京人形の精は、その強靭な身体能力をあますところなく生かしている。ひとつ芯がとおった上半身によって、あくまで人形であることを見せるのが上手い。

中村吉之丞、坂東亀蔵、尾上辰之助といったいつもの松緑一座の面々に、これまた切ってはめたようにぴったりな坂東新悟の女房。

 

f:id:kuroirokuro:20260907145705j:image

 

秀山祭九月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

昼の部の初日を観る。注目は『ひらかな盛衰記』においてよくとりあげられる「逆櫓」の場に先だって、めずらしい「大津宿屋」「笹引」の場が平成四年以来上演されることである。『義経千本桜』における「椎の木」「小金吾討死」のような役割をもった場で、犠牲となる人物のすり替えのお膳立てを明確にする。

この場の主役とも言うべき腰元お筆を演じるのは八代目尾上菊五郎。「宿屋奥座敷」ではひととおりだが、「竹藪」はなかなか見ごたえがある。立ち廻りの美しさは(立ち廻りそのものがあまり工夫されていない、地味なものであったとしても)さすが。なにより笹を切りたおして山吹御前と首のなくなった槌松の死骸をそれにのせ、引きずっていこうとする有名な「笹引」をていねいに演じていてよい。

ただし物足りなくはある。この「笹引」は「なにかを引きずる」という伝統的な演劇表現のひとつであり、それは「想い」を引きずったり「恨み」を引きずったりという心理的運命的なもののメタファーであることは言うまでもない。この場では仕える主を殺された気持ちや、どこかで生きているかもしれない若君を探さねばならぬという宿命をその双肩で「引きずる」わけなのだが、ただ引いてみせようとするだけの現行の型ではいかんせん演出としてよわい。文楽であれば可能であっても、生身の人間が演じる歌舞伎では二本の笹ごときで死体を引きずれないのはしかたがない。それが「引きず」ろうとする形だけを見せるのでは中途半端になる。あれが成立するのは荒事だけだ。演劇史的にも貴重な場面、いつか誰かよい型を生みだしてほしい。ひさびさに復活された二場のなかで(はっきり言って)ここくらいしか見せ場がないからだ。

鎌田隼人に中村錦之助、山吹御前に上村吉弥、槌松の母およしに中村雀右衛門としどころもすくないのに豪華に役者がそろうのが贅沢。権四郎を中村又五郎が演じているが、やや芝居が内向きでよわく、リアルすぎるようにも思われた。「かわいい子じゃなぁ」や「御縁があればまた会いましょう」などは、のちの展開を考えればもっと含有するものがあったほうが生きる。

「竹藪」での笹の茂り具合の絶妙なよさは、大道具の手柄と言ってよいのでは。

つづく「逆櫓」の場では、八代目菊五郎のお筆、又五郎の権四郎、雀右衛門のおよしがよい。この三人がそろって槌松がすでにこの世にないことを嘆きなじる場面はこの場の白眉。「かかじゃわいのう」と我が子の形見を抱きよせるおよし、前場とはうってかわって義太夫狂言らしく「だまれ、だまれ、だまりやがれ」と責める権四郎の手強さ。それら親子の感情の爆発を受けお筆はむずかしい場面だが、菊五郎の芝居が傑出していてとても初役とは思えない。その義太夫狂言らしいたたずまいのなかに、おのずとこぼれる情けがあってよい。菊五郎は以前はたまに冷たさを感じさせるところがあったが、近頃はこういったところがうまい。

この場から出る松右衛門実は樋口次郎を演じるのは松本幸四郎。こちらも初役で二代目吉右衛門のあたり役を引き継ぐが、はじめの出はよくない。後段との差を意識した結果なのか軽すぎて上滑りしている。前半の見せ場である語りもよいところがない。二度目の出で上手屋台の障子をあけての登場から、戸口から顔を出してあたりをみまわし「権四郎、頭がたかい、いやさ頭がたかい」の見せ場はさすがに引き締まっている。だが「みな親父様のおかげ」と権四郎を上座に座らせるのは不安定で効果的ではない。幸四郎がよいのは大詰の浜辺。顔と拵えが見事で、父や叔父以上にはまっている。セリフも肚から響かせていて溜飲がさがる。ただし初日でこれほど無理をして声をつくっていると、とても千秋楽までもたないだろう。幸四郎は叔父・吉右衛門とはちがう、自分の声を見つけるべきだ。

幕切れに尾上松緑の畠山が出て締める。芝居はかっちりとしてよいが、顔がうすくて子供じみて見える。松緑の樋口もぜひ観てみたい。

 

f:id:kuroirokuro:20260902125514j:image

 

八月納涼歌舞伎第一部(歌舞伎座)

 

納涼歌舞伎の第一部『怪談牡丹燈籠』が圧倒的におもしろい。怪談のなかに、いきいきとした人間のドラマがあるからである。

落語由来の歌舞伎演目はいくつもあるが、そのすべてがうまくできているとは思われない。たとえば『文七元結』はもっとも成功した例であるが、それとおなじくらい名作の『芝浜』は歌舞伎としてはどうしようもなく凡庸だ。今月第二部に出ている『らくだ』なども客受けはよいのでよく演じられるが、落語とくらべた場合見劣りのする凡作と言わざるをえない。

さてこの三遊亭圓朝の名作『怪談牡丹燈籠』はもともと演劇的な作品ではあるが、歌舞伎としてよい舞台になるかどうかは紙一重であり、けっきょくのところ演者によるところがおおきいのだが、それが今作は大成功している。

言うまでもなくこの舞台を傑出したものにしているのは、伴蔵を演じる坂東巳之助とその妻お峰を演じる尾上右近のふたりの怪演である。序幕での世話物としての空気感とセリフのテンポのよさもさることながら、圧巻は休憩をはさんだあとの二幕目から。馬子から伴蔵の浮気を聞きだしたお峰。兼ねる役者らしい力強い嫉妬の表情に観客も思わず笑わさられるが、幕切れの「お前さん」の痛切なひと声でハッとさせるうまさ。ふたたび荒物屋になって、帰宅した伴蔵とお峰の丁々発止のやりとりの迫力は特筆もの。よくあるお涙頂戴でも夫婦喧嘩の間抜けさでもなく、ふたりともが人間としてこころのそこから込みあげるものをぶつけあった結果としての応酬がそこにはある。

大詰での殺し場もよい。巳之助と右近はふたりとも圧倒的な身体能力の持ち主であるが、それを十二分に生かされた殺しは、よくあるショウ化されたそれとは一線を画す。この美しい様式とゾクゾクするような狂気の融合こそが本来の歌舞伎の殺し場であり、近年まれに見る成功例だと言えるだろう。いささか食傷気味な本水をつかった雨も、ひたすらドラマに貢献する要素のひとつとしてうまく効果を発揮している。『明月八幡祭』のように誰もいないラストで締めくくる演出もよい。(ただし雨と背景とにあたる照明のバランスはけっしてよくなく改善の余地あり)

牡丹燈籠を掲げてやってくるお露の霊は尾上辰之助。襲名ではニンにない役で気の毒であったが、今月は可憐で品のあるところがぴったりはまっている。お露が恋い慕う荻原新三郎には市川染五郎でセリフも所作も抑制的でよい二枚目。坂東新悟のお国ももちまえのセリフのうまさにとどまらず、ほどよい色気と悪を悪とも思わないドライさが共存していて魅力的。

乳母お米の尾上緑、お六の尾上菊三呂など、脇の実力者がいい役で名演でひかっているのも納涼歌舞伎ならではという感じがしてよい。

 

f:id:kuroirokuro:20260805151118j:image

七月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

『時今也桔梗旗揚』いわゆる「馬盥の光秀」。現在放送中の大河ドラマ『豊臣兄弟』において、本能寺の変が放送される頃にあわせたのかと思わせるタイミングの上演。残念なことに今回は「饗応」の場ははぶかれて「馬盥」と「愛宕山」の二幕。

亡き二代目中村吉右衛門が当たり役としていた武智光秀(明智光秀)を松本幸四郎が初役で演じるが、紫紺の裃が似合うといいう意味では吉右衛門以上。歌舞伎においてその拵えが似合うというのは、きわめて重要な要素である。

春永からわたされた切り髪が妻のものと気づくその瞬間のイキと、そのあとの見得のよさ。また「この切り髪は」から「ありがたく頂戴つかまつるでござりましょう」のセリフのていねいなうまさ。花見の入りでややうつむき気味にきまった顔も、静かな凄みがよい。ただし、それら感情が見え隠れするにいたるまでの前半は、ハラがうすく見え声のつかいかたもただ低いだけで平板。

「愛宕山」の場は「時は今」の歌を読むあたりにようやく面白くなるが、そこまでがやはりうすい。もっともこれは「愛宕山」前半の台本がどうしようもなく悪いのだが。

小田春長(織田信長)は尾上松也。古風な拵えのわりに新歌舞伎めいて見える。しばしばリアルな芝居をしてしまうからである。あいかわらず声をやられているが、そもそも声のつかいかたに問題がある。一座の座組から考えれば、本来春永は團十郎あたりが演じるべきところ。

その市川團十郎は四天王但馬守。幕切れに出てきただけで空気を一変させる存在感はさすが。「本能寺へ」と言ってわずかに顔をかたむけた形がよくきまる。みじかい出番だがよく練られた好演といえる。

 

『御浜御殿綱豊卿』は、このひとをおいてほかにはないという片岡仁左衛門の綱豊卿。二年前に演じたときも圧倒的な舞台で見納めかとも思われたが、今月はいっそう完成度がまして、八十二歳の年齢を感じさせない。

仁左衛門の綱豊は、あいかわらずのセリフのうまさ。たんに口跡がよいだけではなく、その言葉の意味するところの現前化が尋常ではない。とくに今回はその組みたてがうまく、かなり自由にも見えた前回より戯曲全体に構築性が感じられる。

たとえば新井勘解由との場面などは、これまで以上にていねい。綱豊自身も完全に言語化できていない

「心中にに潜んでいる気がする」という、侍心というものの理念面と情念面がうかびあがる。ここでの理念とは武士の鏡となるべき理想像であり、情念とは「討たせたいのう、めでとう本望を遂げさせたいのう」という綱豊自身の欲望である。これがはっきりしていることで、のちの場面の設計図が明確になるのである。

真山節ともよばれる真山青果作品独特のセリフの歌いあげは、観客に心地よい陶酔感をもたらす一方で、ともすれば山場をいくつもつくって戯曲の構造を不明瞭にする。今回の仁左衛門はそれをつとめて避けているように思われる。鼠の話に喩えて吉良が米沢に逃げてしまうと言い、

「阿呆烏がカァカァと鳴いているのだ」と高笑いするくだりも、いつもにくらべてあきらかにおさえた表現になっている。

そうまでして際だたせる頂点のひとつは、「そちたちを信じたいのだ」という情念論を端的に吐露するひとこと。そしてもうひとつの理念論の頂点は、言うまでもなく大詰の能舞台橋懸の場面での長台詞である。「武士相身互い」と言った手本とすべき理想像と、綱豊自身が見たいと思っている仇討ちの成就がここでかさなり、戯曲のもつテーマが明確になった。

富森助右衛門は松本幸四郎。仁左衛門が綱豊を相手になんども演じてきた役。こちらも仁左衛門にあわせるように、セリフをていねいに聞かせることに徹していて好印象。ただし感情の昂りとともにいつもの絶叫の悪癖がところどころ顔をのぞかせて玉に瑕。

新井勘解由の中村歌六、江島の片岡孝太郎らも、兎にも角にもセリフのエッジが効いていて秀逸。これほどのセリフ劇が歌舞伎において見られる日がくるのかと思うほど、隅々まで完成度の高い『御浜御殿』であった。

 

六月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

中村時蔵が雪姫を演じる『金閣寺』は、東京で歌舞伎を観るものにとっては待望の舞台であった。すでに松竹座や博多座で演じてはいても、なかなか東京では目にできなかったからである。

その雪姫は上手の部屋で姿をあらわしたときから、なによりもおとなの女に見えるのがよい。いわゆる三姫と言われる役のひとつではあるが、言うまでもなく雪姫は狩野直信を夫にもつ人妻。そのおとなびた美しさと、またそれでもやはり姫と言われるやわらかさとが、たかいレヴェルで共存しているのが時蔵の雪姫である。

大膳のもつ剣(倶利伽羅丸)を見て親の仇と知ってからのきっぱりとした芝居と、夫・直信と顔をあわせた場面での情感ある芝居の振れ幅のおおきさ。圧巻なのは桜に縛りつけられてからで、桜吹雪のなかたちつくす姿の美しさは特筆もの。ねじった女形の身体の甘精堂という意味では、現在時蔵の右に出るものはいない。「父の仇は」から「恨みはらさで」にいたる文楽人形を思わせる動きのダイナミックさも、そのたかい技術にほれぼれするばかり。縛りつけられるのは上手の桜、足で鼠を描くのは舞台中央。これだけ見事に演じれば、そりゃ鼠の奇跡もおきるだはず。

まわりの役も揃ってよい。今月は歌六や又五郎、時蔵らが一座にいるなかで、あえて若手ばかりの配役だが、これが期待以上に見ごたえがある。第一に傑作なのが中村獅童の松永大膳。古怪さやスケールのおおきさは先達に一歩譲りはするが、かわりにギラギラとした敵役らしさに満ちているのがよい。雪姫に「布団のうえで泣かせてみよう」とセクハラ発言をしたり、碁の勝負にまけて碁盤をひっくりかえしたりする大膳だが、それが妙に納得がいく。そしてなによりセリフがうまく、その意味するところきわめて明瞭にとおっている。けっして声にめぐまれた役者ではないが、セリフの組みたてかたがよく研究されているからである。

此下東吉は中村隼人。線のほそいところがあるとはいえ、生締役らしいきっぱりとした力強さもあり、初役としては大健闘。なんどか金閣の上階(助けだすべき慶寿院尼がいる)を見返るが、そこでの思い入れがうすくてきまらないのはもったいないが。中村歌昇の演じる軍平(佐藤正清)はとくに後半正体をあらわしてからが傑作で、重心のひくいかたちのよさがみごと。

中村錦之助は本来のニンとは思えないあらゆる役柄をまかされるが、まさかと思われた慶寿院尼が素晴らしい。よく制御されたセリフ、品の格のある姿。わずかの出番ながら観るものをハッとさせる正統なもので、脱帽である。

 

『子連れ狼』は、故・萬屋錦之助を敬愛する甥・中村獅童の拝一刀での新作。あえて歌舞伎らしさを出さないという方向性のもと、統一感のあるすっきりとした舞台になっていることに好感がもてる。中村勘九郎、中村七之助、尾上松也、そして市村萬次郎らリアルな芝居のできる役者がくわわっているのもおおきいだろう。演出面でいえば、杉戸監物の屋敷での回り舞台のつかいかたが秀逸で効果的だ。

ただし、それでよいのかという思いものこる。流れる歌や音楽などもふくめて、ここにあるのは徹底的に過去のテレビドラマ版『子連れ狼』へのノスタルジーでしかない。先代錦之助のあの世界を知っている世代には、もしかしたらヒットするのかもしれない。だが演じている獅童より下の世代にとってはどうだろう。もはやパロディとしてネタ化することもむずかしいコンテンツ。獅童ほどの才能があれば、あたらしい『子連れ狼』をつくりだす可能性もあったのではないかと残念な気持ちになる。続編をも可能にするラストシーンを考えると、次があるとしてもこのコンセプトで作らざるをえないからである。

今回の新作の脚本を市村光が手がけていると知る。さまざまな思いがこみあげるが、その才能をぜひのばして今後も活躍されることを祈る。

 

f:id:kuroirokuro:20260608134233j:image

團菊祭五月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

團菊祭夜の部は『菊畑』から。この演目で襲名披露となる三代目尾上辰之助の虎蔵は、昼の部の(あまりにかわいそうなほどニンに合わない)『対面』の曽我五郎とはことなり、さすがに本来の守備範囲でそのよさが生かされている。もちろん未完成も未完成。ちょっとした瞬間に足のはこびが素になったり、サッと掲げた手がきまらなかったりとあげればキリがないが、素直な芸を見ているとこれからののびしろが楽しみだ。だがここまで女形として成果をあげて評価されているのだから、松緑家の跡取りであってもそこで勝負させてあげたいとは思う。

尾上松緑の知恵内は、正体をあきらかにしてからの虎蔵とのかけあいが三味線にのってキッパリして気持ちがよい。ただそのほかは妙に顔もセリフもリアルに砕けすぎ。松緑の芸風からして仁左衛門風なつくりかたではなく、十二代目團十郎的な知恵内のほうがあっているはず。

皆鶴姫を演じる中村時蔵がとにもかくにも絶品。いつものことながらさほど見せ場があるわけでもないこの役を、時代物屈指の赤姫役のように思わせるのがすごいとしか言いようがない。

坂東彦三郎の鬼一法眼は立派でよいが、老けを作ろうとしすぎて滑稽に見える瞬間がいくつもある。坂東亀蔵はたたずまいからセリフまで、本格で安心して見ていられる。

 

なんども観てきたはずの『助六所縁江戸桜』が必見の舞台。あまりに古風で様式的なこの作品がじつに新鮮で、令和の時代においてもじゅうぶんにつうじる破格の面白さを見せているからである。

ひとつには市川團十郎の助六がますます進化していること。まず花道の出端から前回までと印象がガラリとちがう。空前絶後とも言うべきこの助六役者の見せる力強い美しさはあいかわらずだが、今月の出端はひとつひとつの絵としてのきまった姿が、ずっとシームレスにつながっているように見える。身体のきまる点から点へと、断絶がなくおおきなフレージングで流れるように演じられる。そのぶん息が詰まるような緊張感が持続することが賛否を呼ぶかもしれない。だがそれを可能にする團十郎の身体能力にはいつもながら脱帽である。

もうひとつはセリフである。時代に張るところと砕けて言うところの幅がおおきいのが團十郎の助六の特徴。前回までは自由奔放でおおいにウケてはいても、ときおり現代語のように砕けすぎるのが気になることもあった。今回は場合によってはますます捨て台詞のようにより呟いているところさえあるが、それなのになぜか違和感がない。それはすべてのセリフに、いまそこにいる助六が生きた言葉として発しているというリアリティがあるからである。古風な言い回しや当時のギャグが、現代のものとしてよみがえっている。これは数年前の團十郎襲名のときには、方向性は見えていてもまだ未完成であった。古典的な表現と現代人の感覚とのギャップをどう埋めるか、團十郎襲名前から試行錯誤をくりかえしてきたことが、今回ひとつのかたちに結実したと言えるだろう。

揚巻を演じる八代目尾上菊五郎も傑出している。ますます堂々としてきたその舞台姿が立女形たる揚巻にふさわしいのはもちろんだが、今回おどろいたのはそのセリフのもつ情報量のおおさである。花道の七三での酔態はまださほどでもないが、本舞台へ出てからの意休とのやりとりは特筆もの。これほどまでに発する言葉とその意味が立体的に立ちあがってくる揚巻が、かつていただろうか。「意休さんでもない」からの悪態は、それが揚巻というひとりの傾城の生き様そのものになっている。

今月の『助六』が令和のドラマたらしめることに、この八代目の芝居としての面白さが貢献していることは疑いようがない。いまさらながら、芸風も性格もことなる團十郎と八代目菊五郎のふたりが共演の意義を感じざるをえない。

中村梅玉の白酒売がまた傑作。やわらかさといい、ふわりとした明るさといい理想的な白酒売。なんども演じてきたこれまで以上に自由で、その自由さが團十郎の助六とこのうえなくぴったりだ。

髭の意休は市川男女蔵。亡父・左團次そっくりな意休はセリフも見た目も安定していて好印象。ただ廓の「遊び」を知るおとなの余裕が感じられず、揚巻との口喧嘩がほんとうに怒っているように見えるのは無粋。口でおたがい悪態をつきながらうけながす意休が、のちに助六にからかわれて怒り、我を忘れ刀を抜きかけるのが生きないからである。

中村時蔵の白玉は揚巻と対等にはりあえるだけの太夫に見えるのがよい。それでいて八代目の揚巻より目立ちすぎないバランス感覚も。尾上松緑のくゎんぺら門兵衛や中村鷹之資の朝顔仙平、国侍の片岡市蔵、つ通人の尾上右近などワキまでよく揃っている一座。一瞬だけだが、遣手お辰を演じる市村萬次郎がこまかいところで喜劇の人物になりきっていて秀逸。

ちなみに幕開きの口上は市川新之助。本来なら團十郎一門のベテランがつとめるが、該当する役者が一座にいないからか。また成田屋がこの演目を守っていくのだという意気も感じた。

 

f:id:kuroirokuro:20260506113738j:image