舞台
歌舞伎座夜の部は『陣門・組討』から。中村勘九郎による待望の熊谷次郎であり、またその子・中村勘太郎が平敦盛を演じている。 『陣門・組打』じたいはきわめて濃密なひと幕であるが、のちの場面である『陣屋』にくらべるとかなり地味な演目であることは事実…
『お江戸みやげ』といえば、いまは亡き先代中村芝翫と五代目中村富十郎のふたりによる名演が思いだされる。今月は中村鴈治郎と当代中村芝翫のコンビによる上演。鴈治郎はおゆうを、芝翫はお辻をすでになんども演じている(このふたりの組み合わせではない)…
新橋演舞場は恒例の市川團十郎一座の公演。昼の部を観る。 『熊谷陣屋』の熊谷直実を十年ぶりに演じるのは市川團十郎。当代團十郎の特徴のひとつとして、心理が複雑にからみあう悲劇の主人公などを演じると、その内面を過剰におもてに出してしまうということ…
新春の歌舞伎座夜の部は『女暫』から。バカバカしいまでの古典的な演目で、さぞ正月らしいひと幕になるかと思いのほか、不思議なことに見物席はもりあがらない。本来きわめて祝祭的であるはずの『暫』から、どうやらその祝祭性が失われているように思われる。…
『蜘蛛絲梓弦』はエンターテインメントに振りきった舞踊劇。見た目が派手でさまざまな役の早変わりはあれども、ひとつひとつの役をしっかり味わう時間がない。澤瀉屋型の「四の切」とおなじような早変わりのギミックもキレがなく、やたらと蜘蛛の糸をつかう…
『丸橋忠弥』は河竹黙阿弥のいつもの台本を、わずかながら整理してわかりやすくしたものになっている。竹柴潤一の補綴、西森英行の演出という、この数年尾上松緑とともに講談をもとにした新作を世に出しているチームである。この『丸橋忠弥』ももとは講談で…
OrgofAの新作上演『コウノトリが飛ぶ島国で、この部屋で』を観る。作・演出は演劇家族スイートホームの髙橋正子。タイトルからしてこの国(または北海道)における子供や出産をめぐる家族関係をテーマにしているのだと想像できるが、期待させる以上…
ヌトミックの新作『彼方の島たちの話』の初日を観る。世田谷パブリックシアターの「フィーチャード・シアター」のプログラムの一環としての公演。作品としても上演としてもたいへんクオリティがたかい。 作・演出の額田大志が主宰するヌトミックは、そのテク…
新国立劇場のオペラ『ヴォツェック』の上演は、いくつかの意味がある。 まずはこのオペラが初演されて100年という節目の年にあたること。この作品が一世紀をへていながら、いまだに古びない作品であることを再認識できるからである。 もうひとつはおなじ東京…
チェーホフの書いためずらしい長編小説、しかも叙述トリックをもちいたミステリーの舞台化。といってもいまとなっては穴だらけの原作をそのままというわけではなく、脚色・演出の永井愛によってあたらしい姿にうまれかわっている。 原作の『狩場の悲劇』は、…
夜の部の目玉になるのは三谷幸喜の新作歌舞伎『歌舞伎絶対続魂』である。これで「ショー・マスト・ゴー・オン」と読ませるのは、三谷幸喜自身の代表作『ショー・マスト・ゴー・オン〜幕を下ろすな』の翻案であることによるが、なにかもうすこし気の利いた表…
顔見世興行(もはや名のみで無実だが)のはじめは『御摂勧進帳』またの名を「芋洗いの勧進帳」ともいうユーモラスなひと幕。 坂東巳之助の武蔵坊弁慶が、期待にたがわずみごとな好演。まず身体の芯がしっかりしている安定感と、それゆえにリラックスできてい…
名古屋の小劇場系劇団「優しい劇団」の東京公演。初日を観る。 アクティングエリアあるのはちいさなホワイトボードひとつのみで、あとはなにもない。ほんとうになにひとつない。会場の照明機材は演技のあいだまったく使用されず、明かりを発するのは五人の俳…
通し狂言『義経千本桜』の第三部をBキャストで。 まずは「吉野山」で忠信を演じる尾上右近が圧巻である。いわゆる日本舞踊といわれる歌舞伎舞踊には「舞踊家の踊り」と「役者の踊り」があるという。(とくに専業舞踊家におおい意見だ)踊りそのもの完成度を…
歌舞伎座の通し狂言『義経千本桜』の月後半、Bキャストによる第二部。「木の実」での仁左衛門は颯爽と登場するその出からあざやか。荷物を取り違える意図と段取りを、わざと観客にわかるように見せるのが独特。花道に走り去るおりの表情もまた。いずれも延若…
『義経千本桜』の通しは後半のBキャストを観る。まずは「鳥居前」から。期待どおり尾上右近の忠信が絶品だ。揚幕から声だけ聞こえたその段階で、目が覚めるようなよさ。そして舞台へ出てからの美しくきまるかたちに圧倒される。歌舞伎の演技というものが、い…
新国立劇場の『ラ・ボエーム』の再演は、楽譜にていねいにむきあうことがいかに重要か、そんなあたりまえのことをあらためて感じさせられる公演であった。 指揮者のパオロ・オルミの音楽がよくもわるくも古典的である。第一幕の幕開きからしていまどき珍しい…
ヨン・フォッセの『だれか、来る』が三鷹のSCOOLで上演された。演出は批評家としてさまざまなジャンルを横断的に活躍してきた佐々木敦。休憩なしの二時間半というステージである。 『だれか、来る』の戯曲としての構造と、そこでおこっていることはきわめて…
閉館中の国立劇場の歌舞伎公演。名作『仮名手本忠臣蔵』のなかでも、通し上演にはふくまれない加古川本蔵をめぐる二段目と九段目が組みあわせてとりあげられる。九段目はそれでも単独または八段目の道行とあわせて上演されることがあるが、二段目となるとな…
今年の秀山祭は三大丸本歌舞伎のひとつである『菅原伝授手習鑑』の通し上演である。最近よくやられているようにダブルキャストによる交代制だが、そのAキャスト二日目の昼の部を観る。 「加茂堤」は苅屋姫を演じる尾上左近に目をひかれる。尾上松緑家の跡取…
納涼歌舞伎は今年も恒例の三部制。その第三部の『野田版・研辰の討たれ』を観る。故・十八代目中村勘三郎が演出家・野田秀樹とともにつくりあげた舞台であり、今月は中村勘九郎がはじめて父の演じた守山辰次を演じる。まわりの役も一世代めぐってあたらしい…
Noismの彩の国さいたま芸術劇場公演初日を観る。今回はビゼーの名曲『アルルの女』と、あまりに有名なラヴェルの『ボレロ』という組みあわせ。振付は金森穣。 まずは『アルルの女』がおそろしいまでの完成度をたたえた傑出した舞台。細部までそのセンスがい…
市川團十郎白猿のこのところの躍進にはいちじるしいものがあり、五月の『勧進帳』の弁慶や『白浪五人男』の日本駄右衛門、そして先月の『暫』の鎌倉権五郎などはこれまで以上に充実していたのが記憶にあたらしい。とくに市川家の家の芸である荒事にかんして…
小田尚稔の演劇『国/家』の新作初演。三日目を観る。ひさびさに小田尚稔の演劇に接したが、あいかわらずのすてきな朴訥さのなかに、またひとつあたらしいメタ演劇論的なおもしろさを感じさせる舞台であった。 タイトルが『国/家』であることは、さまざまな…
終のすみかによる、過去に上演された二作品をあわせて再演するという企画。作・演出は坂本奈央。いずれも限られた人物たちの会話が織りなす傑作である。そのセリフはときにリアルなノイズをともなうのだが、それが突如として古典的と言ってもよいリリカルな…
尾上菊五郎襲名ふた月めの夜の部は『暫』からはじまる。鎌倉権五郎を演じるのはもちろん市川團十郎白猿。なんども演じている役だが、今回はいっそうその立派さが際立つ。歌舞伎座の間口は歌舞伎を上演するには広すぎると感じることは少なくない(南座などは…
ふ 尾上菊五郎襲名も二ヶ月目。まずは『菅原伝授手習鑑』の「車引」で新・菊之助の梅王丸である。配役を見たときにおやっと思ったのは、桜丸ではなく梅王丸なのかということだった。いうまでもなく菊五郎家がそもそも桜丸をやる家であり、またまだ若年という…
遅ればせながら観る襲名披露興行夜の部、まずは『五斗三番叟』から。作品としては数年にいちど上演されるいささか地味な作品だが、劇中に取り入れられる三番叟的要素が襲名を寿ぐにふさわしい。ただ、演じ手を選ぶ作品でもある。 五斗兵衛は尾上松緑。登場し…
Dr. Holiday Laboratorの『想像の犠牲』(作・演出山本ジャスティン伊等)を観る。昨年12月にロームシアター京都で初演された舞台の、東京に場所をうつしての再演となる。初演は未見なのでそれとの比較はできないが、控えめに言って驚愕せずにはいられない傑…
加藤健一事務所による『黄昏の湖』を観る。1981年度のアカデミー賞で主演男優賞や主演女優賞などを取った映画『黄昏』のもとになる、アーネスト・トンプソンの戯曲である。 アメリカの田舎にある湖畔の別荘に、ノーマンとエセルの老夫婦が避暑に訪れる。そこ…