三月の歌舞伎座の第二部、初日を観る。
まずはなんといっても『仮名手本忠臣蔵』の「十段目」がめずらしく上演されるのがよい。歌舞伎座では五十年以上も上演されていない場であり、そのあいだも国立劇場などでとりあげられることが数度あったとはいえ、いずれも通し上演のなかの一幕である。この「十段目」だけが単独でとりあげられるということが、まずもってめずらしい。
とりあげられないには理由がある。天川屋義平が信用に足る人物かどうか、大星由良助以下の赤穂浪人がうつひと芝居。その内容と戯曲の構造があまりに単純であるからだ。その結果「天川屋義平は、男でござる」という名台詞を聞くだけの場になりかねず、ほかの場にくらべると軽い芝居になってしまう。
今月の舞台で義平を演じるのは中村芝翫。格子ではなく幡随院長兵衛ばりの荒磯の衣装をまとった義平は、そのせいなのかいささか侠客めく。そういう面がないではないだろうが、一介の町人にも義士とおなじような骨太な忠義の心があるというのがこの幕の主眼であり、役としてもったいなくうつる。芝翫のセリフは組み立てがしっかりしていて、この珍しい場を古典として折り目正しく演じようという心意気がつたわる。
たいする大星由良之助は松本幸四郎。義平が侠客めいたおおきさを見せたぶんだけ、やや由良之助がスケールダウンして見える。これは世界観としてあまりよろしくない。芝翫が本来はガラもニンも幸四郎以上の由良之助役者であることも無関係ではないだろう。
義平女房のお園は片岡孝太郎。この一座のなかにあっては唯一上方らしさを感じさせて、忠臣蔵の世界の世話女房らしくみえる。
休憩をはさんで後半は『身替座禅』である。療養に専念するため休演した尾上菊五郎にかわって、尾上松緑が山蔭右京を演じる。毎年どこかで上演される『身替座禅』だが、この初役となる松緑がじつに新鮮でよい。折り目正しくていねいに踊り演じることで、近年ぐんと評価をあげてきた松緑。ここでもその特徴がいかされている。ことさら笑いを取りにいくのではなく、きっちりと演じることで自然に笑いをおこす誠実さが魅力。ことに長唄が入ってからの回想は引き込まれる。それだけだはなく、菊五郎のもつとぼけた味をうまく受け継いでいるのがよい。ただひとつ気になるのは、このところ目に見えて改善されていた発声がうまくいっていないこと。右京の役を表現するにあたりそのニュアンスが先行して、喉の奥を閉じてしまうという悪い癖が出ているようだ。日を重ねるにつれてそのバランスが改善されればよいのだが。
その奥方玉ノ井は中村鴈治郎。独特の喜劇味があるのは鴈治郎の得。それにくわえて、とかくゴツゴツした鬼婆のようになりがちな玉ノ井を、じつにかわいらしい女性として演じていることに好感がもてる。太郎冠者を河原崎権十郎。洒脱で自由なのがすてきだ。
長唄の杵屋勝四郎が今月もその美声を響かせている。その音楽的な満足度がこの喜劇を格調高いものにしていることは間違いないだろう。