黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

三月大歌舞伎第一部(歌舞伎座)

 

第一部は宇野信夫の『花の御所始末』のひさびさの上演。一九七四年の初演で、宇野の作品としては有名な『じいさんばあさん』『曽根崎心中』『盲目物語』などよりもずっとあとの晩年のもの。当代白鸚のために書き下ろされ、その後いちどだけ再演。それが今月が初役となる松本幸四郎へと、高麗屋二代にわたってうけつがれることになる。めったに上演されないこの作品が、現代の役者によって現代の観客にどううつるのか。

 

シェイクスピアの『リチャード三世』を下敷きにしたとうたわれるが、それほど直接的なつながりは感じられない。おなじような話の類型はほかにもいくらでもあるからである。リチャード三世がマキャベリズムにとらわれた権力志向の純粋な悪人としてえがかれているのにたいして、今作での足利義教はより複雑である。善悪を超越した悪人になりたいという潜在的な欲望をもち、その欲望ゆえに身を焦がしている。「良心」とは「弱さ」だと義教はいう。それはつまり「悪」こそが「強さ」だということだ。それは悪の華というような月並みな謳い文句で表現できないものだ。

たとえば、義教が父・足利義満を手にかける場面。フィクションの分野においても精神分析の分野においても、いうまでもなく「父殺し」は重要なキーワードである。ギリシャ神話からフロイトまで、そこに人間の無意識な欲望が象徴されている。義教は義満を殺したあと、自分が義満の実の子供ではないことを知らされ驚愕する。この驚愕はそれ以上のべつの意味を持っている。「父殺し」によって「究極の悪」になれたはずの義教は、それが達成されていないことを知る、そのことへのおののきなのである。ここでの幸四郎のたじろぎは、それを想像させてうまい。望んでいた「悪の華」になれたはずの計画が頓挫したのだから、その当惑はもっともだろう。そののち将軍職を継いだ義教は、最大の協力者であり実の親である畠山満家を殺す。ここにいたって「親殺し」は貫徹し、義教は望みどおりの「悪の華」になる。すがりつく実の父を殺す幸四郎の身体からは、喜びかとも見紛うほどのエネルギーが発せられている。初演で義教を演じたのは前述のとおり二代目松本白鸚だが、そのときの畠山満家が白鸚の父・初世白鸚であったことが、またおおきな意味をともなっていると言わざるをえない。

その畠山満家を演じるのは中村芝翫。前半において義教よりも落ち着きのある徹底した黒幕を演じるさまは、まさに乗り越えるべき父権的存在そのもの。第三幕になり、勢い衰えた姿との演じわけもうまい。義教とのステータスの入れ替わりが明確であり、戯曲のねらいがはっきりとする。ただこれは戯曲の問題だが、後半でなにゆえそこまでひとがかわったように弱々しく卑しい人物になるのか。もちろん権力から遠ざけられたことの焦りや不安が原因なのだが、舞台上でその過程が書かれていないかぎり、やや作為的に思われた。

義教の弟・足利義嗣は坂東亀蔵。新歌舞伎めいたこういった作品においては部類のうまさを発揮する。セリフの明晰さは兄・彦三郎以上に特筆すべきもの。義教の妹・入江を演じるのは中村雀右衛門。このベテランが幸四郎の妹にきちんとみえるのが素晴らしい。畠山左馬之助は市川染五郎。声に若さゆえの不安定さがあるものの、芝居のしっかりしているのが好感が持てる。

 

全体的に演出は洗いなおす必要があるだろう。序幕での人物の出入りの間の抜けた散漫さには眉をしかめざるを得ない。義満殺しで血まみれの義教が奥から出る場面は、もっと効果的につくれるだろうにもったいない。開幕のもはや時代遅れとしかいいようのない音楽をはじめとして、全体に音楽や効果音がスピーカーから大音量で流れるのも品がない。作品が古典的な味を持っているのに似つかわしくないのだ。うまくやれば再演を重ねるに値する作品だと思うだけに、もうひとつ磨きあげられたらと感じた。