劇団アンパサンドの『地上の骨』の二日目を観る。作・演出は安藤奎。
舞台中央にはたくさんの書類と文具が置かれた丸テーブル。その上手下手にはそれぞれおなじような長机(正確に言えば互い違いにならべられたひとり用の机なのだが)があり、閉じられたノートパソコンがその上にある。どこにでもありそうなオフィスの風景だ。そこではじまるのは、やはりどこにでもありそうなオフィスワーカーたちの日常。だが、それがやがて想像もつかないような不条理な笑いと恐ろしさをそなえた展開を見せるという面白さを堪能できた。
他人の善意を無下にしたくないがために、わたしたちはしばしば嘘をつく。それがどんなに悪意にもとづかないものであったとしても、たいていのひとにとっては幽かな後ろめたさを感じさせるものであり、いつまでも消えない違和感をもたらす。そんなとき[喉に刺さった小骨」のようだと表現することがあるが、この『地上の骨』はその月並みな慣用表現のただ一文を、これでもかと拡大してひとつの舞台に仕上げたものだと言えるだろう。安河内なる同僚が作ってきた「骨まで食べられる魚の佃煮」の骨がのどにすっきり刺さったことをきっかけに、ミヤビの咄嗟に発した悪意なき嘘が異形の姿を呼び起こすという発想と構成がまずもってたくみだ。
「悪意なき嘘」は悪なのか。またそれを誘発させてしまう「善意からの迷惑」は悪なのか。終盤になって姿を変えてしまった安河内が「さばいてくれ」というのにたいし、ミヤビは「さばけない」とこたえる。言うまでもなく「魚を捌く」行為と「ひとを裁く」行為のダブルミーニングなのだが、沸き起こる爆笑のなかで繰り返されるその言葉の意味は重い。
登場人物を舞台上で消失させるための「仕掛け」も秀逸である。客席を爆笑に巻き込みながら、いつまでも不気味な後味を舞台に残すことにも成功している。ラストの終わり方はあまりにいかにもなパターンでやや興をそがれた思いがしたが。
観た席の関係もあるだろうが、たまにセリフ(しかも重要な情報と思われるもの)が聞き取りにくくなる俳優がいるのが玉に瑕だが、出演陣はいずれも熱演で充実している。なかでもミヤビ役の安藤輪子は作品のテーマにぴったりな名演。