黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

三月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

昼の部は見ごたえのある演目がならび、それぞれ面白い舞台になっている。

 

最初は『寺子屋』である。尾上菊之助はある時期より女形から立役へと、そのとりあげる役の比重をおおきくシフトしてきた。遠くない将来なされるであろう八代目尾上菊五郎襲名をみすえ宗五郎や新三を演じるだけではなく、岳父・吉右衛門があたり芸とした時代者の立役の数々に挑んできた。それが今月は松王丸を初役で演じる。とはいえ誰もがまさかと思った役、そもそも役があっていないだの、ニンが違うと言ってもしかたのない話。むしろ菊之助の葛藤のあとが随所に見られて興味深い。

出のセリフである「ヤァレお待ちなされ、しばらく」は調子を変えず豪快さ一本。しかしはじめの長台詞のなかの咳は「おろそかには」のあとにリアルにさり気なく。花道へむけての「こりゃヤイ百姓めら」は類を見ないほど力強く、村人たちとの距離感が面白い。かと思えば源蔵とのつけまわしはひかえめで地味。「生き顔と死に顔は相好がかわるなどと」はまた豪快と思えば、「早く打て」は低く言うが気持ちが抜けているように見える。首実検で検分のあいだはハラをわらず(「でかした」のセリフもない)力強いが、「よく打った」と言ったあとで咳をして顔を覆うのはきわめてリアルだ。ようするに菊之助の松王は、どのような役として演じるかが試行錯誤の段階でまとまっていない。それは吉右衛門系の型と菊五郎系の型(言うまでもなく拵えは菊五郎型の鼠色である)の融合というようなことではないだろう。だからこそ、再演をかさねてこれがどういう方向へまとまっていくのかを見届けたいと思わせた。後半は情のあつい、しかしながら感情を表に出しすぎないやり方に、吉右衛門の片鱗があって興味深い。そのなかでも泣き笑いは白眉。

中村梅枝の千代が傑作。花道から本舞台へかけ出たその緊迫感、鍵のかかった戸に手をかけたときに一瞬見せるひねった身体の美しさ。それだけでよい千代だとわかる。「あの奥であそんでおりまするか」でわが子の生存のわずかな可能性を感じながら、刀を抜こうとした源蔵を見てすべてを悟るイキ。誰もがやることだが、そのイキが素晴らしく内面の移り変わりが手に取るようにわかる。振り返って源蔵と「ハハ」と笑うが、ほとんど声にならない。そこに見せるのは深い絶望である。三十代の若手女形とは到底思えない完成度。

武部源蔵は片岡愛之助。こまかい部分のわずかな型の相違に、愛之助のこだわりがある。その合理的なテキスト解釈は松島家流というべきか。「せまじきものは宮仕え」は竹本にまかせるやり方。セリフのうまさは特筆すべきもので、仁左衛門のそれをよく研究しながら、この世代の役者にしてはめずらしいくらい大時代に張るところを張って聴きごたえがある。そこに忠義一徹な力強さと、かつて戸浪と駆け落ちした色気が共存しているのがよい。ひとつ問題があるとすれば愛之助の発声。どのように演じどのようにセリフを言うかというイメージが明確にある(だからこそ完成度が高いのだが)だけに、喉で声を無理やりつくっているところがすくなくない。

戸浪を演じるのは坂東新悟。愛之助とみごとなアンサンブルで好演。「これがすなわち菅秀才のお机文庫」と机を前に運んで中腰できまり、右手から手ぬぐいを落とすイキと姿が抜群によい。「天道様、仏神様」と祈願するのは、前に向きなおらず裏向きのままわずかな首の傾きだけで見せるうまさ。

涎くりを演じるのは中村鷹之助絶妙に。身体のつかいかたもセリフの間も絶妙にうまいのに、出すぎずひかえめなのがよい。

 

『御浜御殿』はもはや不動の評価を得ている片岡仁左衛門による徳川綱豊がまたいちだんと傑作に。これまでとのいちばんの違いは、高音を多用した朗々と響く独特の調子がややなりをひそめ、よりテクストを自然に語るスタイルが見られることである。序幕での「御台所は苦手じゃ」も歌うこともなくしみじみと語るのがかえって新鮮。真山青果ののなかでももっとも真山青果らしい作品であり、いわゆる「真山節」とでも言うべきセリフまわしは聞きどころであるが、その陰に隠れていたテクスト本来の意味が明瞭になったように思われた。「討たせたいのう」のセリフが、綱豊の理ではなく情が言わせたものに聞こえるという面白さ。こうあるべきという理想が、本能的な欲望と結びついた言葉になった。この綱豊を、今後だれが受けついでいくのか。

富森助右衛門は松本幸四郎。テクスト解釈の的確さと、そこから芝居の組みたてるうまさはさすがの幸四郎。ことに綱豊を追及していくくだりの明確さは余人にないもの。敷居をまたいだあとの陶酔と言ってもよい芝居にはひきこまれる。ただし、あまりにセリフが聞き取りにくい。悪声はいたしかたないことではあるが、セリフがもっている言葉のちからがどこかへ消えてしまっている。前述の陶酔はそれを埋めるものなのかもしれない。しかしそれと引き換えにテクストが本来持っているドラマが希薄になっているのでは、この『御浜御殿』という芳醇なセリフ劇の面白さが半減する。よりリアルに気持ち本位になることでテクストを浮かびあがらせた仁左衛門と、おどろくほど好対照である。

ここでも鬼才を発揮するのは中村梅枝のお喜世。とくに序幕で見せる「若さ」がよく、一時間前まで千代を演じた役者とは思えないほど。そのお喜世をこれまでなんども演じてきた片岡孝太郎が江島を初役で演じる。序幕で登場したところはおやおやと思うほど軽く心配したが、屋敷内へ入ってからは風格のあるよい江島になっていた。舞台をしめるのは中村歌六の新井白石。いろいろな役者が演じるなか、歌六のセリフのちからは抜群である。この師が理知的であるから、綱豊の人物像がはっきりする。やはり『御浜御殿』はセリフ劇なのだ。