黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

十二月大歌舞伎第二部(歌舞伎座)

 

昨年初演されて話題となった『荒川十太夫』につづく、講談を原作とする新作歌舞伎の第二弾『俵星玄蕃』の初演。尾上松緑が中心となるこのプロジェクトは、赤穂義士外伝としてシリーズ化されていくのだろう。『荒川十太夫』も来月さっそく再演されるということで、再演に耐えられる新作が生まれるのは素晴らしいことだ。

今作も前作同様に新歌舞伎テイストのセリフ劇。そしてその台本がなかなか秀逸。まさに歌舞伎役者がその技術を活かすことができる、リズムのあるセリフがならぶ。そしてそれにこたえるように一座する役者がことごとくセリフがうまい。第一部の『今昔饗宴千本桜』とはまたちがった意味で、歌舞伎らしさにあふれた秀作の誕生である。廻り舞台をうまくつかった場面転換も優れている。

ただその優れた台本にも惜しい部分もある。第四場で、上杉家への仕官をきめながら、本心では赤穂浪士の生き方にこころを寄せる玄蕃。そこへ加賀前田家からのより高禄での誘い(赤穂浪士たちの工作による偽使者)が舞い込む。先約を断れないといったん辞退するも、結局は上杉家への仕官を断る口きっかけになるわけだが、そこにいたる玄蕃の心理がきわめてわかりにくく不親切。これに先立つ玄蕃と蕎麦屋(じつは赤穂浪人の杉野)とのやり取りは『御浜御殿』の綱豊と助右衛門のそれを思わせる名場面なのだが、そこで語られた理想の生き方論とつながっているようでつながらない。セリフで明示しなくてもよいが、それなら役者にハラの芝居をさせる間をつくってほしい。

つづく第五場は、前場とわざわざ幕を引いて切ったにもかかわらず、二言三言の会話があったかと思えば討ち入りの陣太鼓が聞こえて飛び出す玄蕃。あっけないほどみじかいこの場のはじめに、前場であきらかにされなかった玄蕃の心理のかわっていく過程を補足することもできるだろう。もうすこし台本を整理する余地はいくつかあるようだ。

俵星玄蕃を演じる尾上松緑は、やや荒れたダミ声を多用しすぎるようにも思われるが、理想の生き方との矛盾を感じながら生きる武芸者の人物をよくえがいている。たいする杉野十平次を演じるのは坂東亀蔵。もともとセリフがうまい役者だが、武士としての本来の姿を垣間見せて好演。このふたりのやりとりが見ごたえある名場面になっていることはすでに書いた。

まわりの役者もひとりのこらずよい。吉田忠左衛門の河原崎権十郎、村松三太夫の権十郎、三村次郎左衛門の市村橘太郎。岡野金右衛門の咲十郎、蕎麦屋の客の吉三郎や辰緑まで、この実力者がそろった一座でみたい芝居がたくさん思いうかぶ。このアンサンブルがあれば歌舞伎の世話物もまだまだ健在だろう。

わたしたちはだれも、本来あるべき理想を胸のうちに思いえがきながら、それとはかけはなれた現実の自分を生きている。その二重性は令和の時代になってますます加速しているように思われる。これは普遍かつ不変のアポリアだ。前作『荒川十太夫』のような画期的なあらたしい趣向はなかったが、これはこれで師走に演じられるべき古典的な秀作。こちらもまた磨きあげて再演されることを願う。