黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

三月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

『伊勢音頭恋寝刃』の通し。いつもは「油屋」と「奥庭」だけの上演だが、まれにに通して上演されることもある今作。結論から言えば、やはり「油屋」ははまった役者を得たときに、いまだその価値を失わない名作であるという話である。

通しとなった場合に問題となるのは、福岡貢という人物に、大詰の「油屋」とそこまでの場における役の一貫性だろう。「油屋」での貢はいわゆるピントコナとよばれるものの典型で、和事のやわらかさと立役の強さをあわせもった役である。しかしながら「油屋」にいたるまでの貢には、それほど和事的な要素がみられないため、そのバランスをどうとるかというところがむずかしい。幸四郎は身体のつかいかたにおいてはどちらかといえば立役らしい落ち着きをみせ、しかし声については和事らしさを表現しているが、それが中途半端で結果的に前半は印象がうすくなった。そのため今田万次郎と差が出にくく損をしている。

田万次郎を演じるのは尾上菊之助。初役ということだが、最近の菊之助にしてはめずらしく高い声を細く使って和事らしさを工夫している。前述のとおり幸四郎の貢とならんだときに似かよってしまうのはもったいないが、これは菊之助のせいではない。

「だんまり」はよくない。と言うよりも、最近はどの演目であっても「だんまり」が面白いことがほとんどない。その身体が暗闇を表現するという根本が忘れられ形骸化しているからである。

このあとめずらしい「太々講」の場が復活されている。話としては「油屋」へのつながってわかりやすいはいえ、ただの軽い喜劇になりかねないあやうさもはらんでいる。演出が整理されたらもっと見ごたえがあるだろう。そんななか、貢の叔母を演じる市川高麗蔵が傑出した名演。青江下坂の由来語りといい、彦太夫・正太夫らへの掛け合いといい、武家の女らしい格と説得力のある芝居で舞台をしめていて、この場でもっとも充実している。

「油屋」にいたってようやく芝居が流れて面白くなる。それどころか、この場での幸四郎の福岡貢がきわめて傑作な出来といってよい。前半であれほど精彩を欠いた幸四郎が別人のようにかわった理由は三つある。

ひとつは、彼が手本にする片岡仁左衛門の貢の型が隅々まで練りあげられており、それを幸四郎が受け継ぎながら自分の芝居として熟成されたものにしていること。「万よべ、万よべ、万野よべ」のハッとするようなイキ、愛想尽かしでの受けの芝居の見事さ、殺し場での形の美しさ。歌舞伎における型というものの重要性をこれでもかと実感させてくれる。普段上演されないほかの場において、いかに見せ場となるべき型が練りあげられていないのかということなのだが。

もうひとつは、幸四郎という役者の特質とかかわる問題である。松本幸四郎という役者は、まるで役に取り憑かれたように役になりきったときにその本領を発揮する。いわば「内面が埋まる」という近代演劇の演技術を、六代目尾上菊五郎とはまったくことなるやり方で歌舞伎に取り込んで成功しているのが幸四郎である。言いかえれば、埋めるべき内面があるとき幸四郎の身体や声は役のなかで型を乗り越えて融合するが、その内面のドラマが希薄なとき(つまり今回で言えば「油屋」にいたるまでの場面において)それはたちまち破綻する。そんな幸四郎にとっては「奥庭」は美しい殺しの場のまま幕を引いたほうがふさわしいのかもしれない。われにかえっての取ってつけたような歌舞伎のお約束が蛇足に見える。

最後に、まわりの役が豪華に揃っていることである。「太々講」では手持ち無沙汰であった中村雀右衛門のお紺が「油屋」では好演。坂東新悟のお岸もはまっている。喜助を演じる片岡愛之助は、きっぱりとしていながら江戸のそれとは一味違う芝居を見せていてよい。万野は中村魁春。どうにも地味で憎たらしさが足りないのはこの人らしいが、ところどころ歌右衛門を思わせる瞬間があるのに驚いた。特筆すべきはお鹿の坂東彌十郎。なんと言ってもおかしさを狙うことなく、普通に女形として芝居をしているのが大成功。あのおおきな体躯が女郎姿になればそれだけで可笑しいわけで、ていねいに演じることで、お鹿という人物のひたむきさが見えて哀れさがきわだつ。


最後は尾上松緑と中村梅枝による『喜撰』が見もの。

松緑の喜撰法師は、富十郎のようなあざやかさとも、三津五郎のような技術で作りあげた柔らかさともことなる、きわめて折り目正しい格調があってよい。ひとことで言えば真面目で実直な踊りなのだが、その狙わないていねいさがじつに気持ちよい。五年後、十年後の成熟が楽しみな役。

梅枝のお梶はおどろくべき完成度。その色気といい、踊りそのものの美しさといい、この若さでみごととしか言いようがない。これが数か月後に中村時蔵を襲名したときにどこまで進化していくのだろう。