黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

猿若祭二月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

猿若祭と銘打った二月の歌舞伎座は、十八代目勘三郎の十三回忌追善興行で、最近の歌舞伎座ではめずらしいほどの王道の古典作品が昼夜にならぶ。

 

昼の部は『野崎村』から。人間国宝級のベテランが演じる『野崎村』もよいが、中村鶴松が初役で演じるおみつがなかなか新鮮で面白い。大根のナマスづくりは、髪を気にして鏡と包丁の合せ鏡を二度するだけの、シンプルな六代目菊五郎系の型。お染の登場で後退りして縁側にぶつかりくるりとまわる姿もうまくきまり、ちいさい柄を活かして小気味よく身体が動くのが鶴松の持ち味。江戸の型は心理でそのあいだを埋めてこそのシンプルさ。しかし鶴松は先人とはいささか違う、あえて言えば「キャラ」で埋めているとでもいうべき現代的な演じ方で、ここが新鮮と感じさせるところ。後半の出て髪をおろしてからは、さすが情がうすくてもったいないが、後述のごとく幕切れの見送りのながい余韻は感動的。

久松は中村七之助。こちらも初役ということだが、さすがに完成度が高い。とくに柔らかさをおさえてきっぱりと演じることで、この丁稚が武士の家の生まれだということを感じさせるのがさすが。やや冷たく情がうすい印象を与えるのは、七之助の芸風ゆえ仕方ないが。

お染は中村児太郎。こちらはなんどか演じている役だが、なぜかもっさりと動きが重い。ていねいに演じているが、町家のお嬢様というより姫に見えてしまう。とはいえ児太郎は本当はお光がぴったりだろうから、どこかで観てみたい。

久作を演じるのは坂東弥十郎。さらさらしているが、幕切れの余韻は弥十郎の好サポートのおかげ。お染と久松を見送ったお光と久作。お光がぽとりと落とした数珠を久作が拾い、お光の手に持たせる。その抜け殻のような姿に愕然とする久作の姿がリアルな感動を呼ぶ。そしてお光がその久作に気がついて我に返り泣きくずれる。あの抜け殻のままでは、お光はその場で命を断っていたかもしれない。それが「泣いてくれた」ことで、あぁ娘がすくなくともこの瞬間は助かった、という安堵とあわれみの入り混じった「もっともだ」のセリフ。そんなふうに感じさせる『野崎村』の幕切れははじめてだ。弥十郎もすごいが、その空虚さとそこからの回帰を演じた鶴松もすごい。

 

昼の部のキリは中村屋兄弟による『籠釣瓶花街酔醒』である。ファンも待っていただろうが、演じる本人たちこそ待ちに待った役に違いない。というよりも、ひところは毎年のように白鸚、吉右衛門、勘三郎の三人が交代で演じていた『籠釣瓶』も、東京で上演されるのはなんと八年ぶり。ここまで上演されなかったことは、昭和二十二年の初演以来なかったのではあるまいか。そういう意味でも、あたらしい時代の『籠釣瓶』がはじまるのだという期待感が、いやがおうにも高まる。

佐野次郎左衛門役の中村勘九郎。八ツ橋役の中村七之助。ともに先人たちとはまったく違う芝居をつくりだそうとしている。それはふたりの芸質にきわめてあったものであるとどうじに、令和の『籠釣瓶』としてあらたな基準となる可能性がある。だがそれはあたりまえだが未完成でもある。

勘九郎の次郎左衛門は、基本的には亡き勘三郎のそれを器用に写したもの。とくに縁切場の前半などは目をつぶれば父親そっくりだ。だが勘九郎の独自な部分がいくつもあり、それがきわめて優れている。たとえば最初の見初の場では、はじめてきた吉原の空気に呑まれながらも、それなりに仕事のできる商人(そうでなければのちに吉原で豪遊するだけの身代を維持できまい)としてのベースを失わない。勘三郎にしても吉右衛門にしても、その愛嬌ゆえに見えにくなっていた次郎左衛門の実直かつ堅実な部分。それがこの次郎左衛門をつらぬく性根である。だからこそ遣手部屋で栄之丞を見かけたとき、その正体になかば気がつき、不安と言うより懐疑という言葉が似合うきびしい視線をおくる。縁切りでの「夜毎にかわる枕の数」の有名なセリフも、あふれでる感情より理性が言葉を選んでいる感がつよい。「田舎者のそのうえに、ふた目と見られぬ儂ゆえに」が、これほどまで冷静を「装って」口にされるとは思いもよらなかった。真面目で頭のよい人間が裏切られて切れたときほど怖いものはない。大詰での籠釣瓶を抜いた立ち回りの爆発もその延長線にあるものだろう。

しかしその勘九郎のつくる硬派な次郎左衛門にまとわりついているのが、亡き勘三郎の次郎左衛門なのである。勘三郎と勘九郎は本来はまったく芸質がことなる。父親の影響をかなぐり捨てられたとき、現代の演劇としてこのうえなく説得力をもった次郎左衛門が誕生するのだと思われた。

七之助の八ツ橋も類を見ない独特なもの。この八ツ橋をもっとも特徴づけるのは縁切場である。かつてここまで次郎左衛門に強くあたって愛想尽かしをした八ツ橋がいただろうか。彼女の持つ煙管がこれほどまでにはげしく投げつけられたことがあっただろうか。次郎左衛門に申し訳ない気持ちを隠しながら愛想尽かしをする八ツ橋もあった。お職を張る花魁として平静を装う八ツ橋もいた。こんなことをしなければならないという悲しさを背負った八ツ橋もいた。だが七之助は過去の誰とも違う。この八ツ橋は自分のおかれたこの状況に「キレた」のだ。どうにもならなくなった現状を投げだしたくなる、まさに現代人に特有の「リセット願望」の体現。座敷を出るときに項垂れる次郎左衛門から目を背けるのも、彼に申し訳ないというよりも、彼の存在を「なかったことに」する行為に見える。幕切れに言う「つくづく、嫌になりんした」というセリフの意味も、ちがった意味をまとってくるだろう。

ただ、さすがにいまのままではただの「若者の逆ギレ」に見えかねない。技術がある役者だけに、それが意図とことなり上滑りしてしまう。立花屋の店先で次郎左衛門に煙管を手渡す場面のリアルさと、廻し部屋で栄之丞に見せる古典的な媚態とのアンバランスも気になる。とはいえ七之助のこと、その隙間を埋めてくれるに違いなく、楽しみでもある。

繁山栄之丞は仁左衛門。勘九郎・七之助に合わせようとしたためか、浪宅でのセリフは若作りしすぎて不自然に聞こえる。そこはさすがに名優仁左衛門、廻し部屋での八ツ橋とのやりとりはいつもの調子に戻って見応えあり。年齢をまったく感じさせないどころか、これまで以上に自然で巧み。あたらしい『籠釣瓶』をつくりあげることに貢献している。

出色の出来は尾上松緑の釣鐘権八。もっとベテランの脇役がつとめるこの役を、初役でありながら見事に自分のものにしているのがさすが。屈折した性根を直接的な表現ではなく、ギラギラした手強さに変換して演じている。松緑のおかげで、役の格がひとつあがった。

立花屋長兵衛に中村歌六、その女房に中村時蔵とベテランが舞台をしめている。治六は中村橋之助、九重は中村児太郎、七越に芝のぶ、初菊に鶴松と、追善らしく故人にゆかりの役者がならぶ。