納涼歌舞伎の第二部を観る。
なんと四十七年ぶりとなる真山青果の『新門辰五郎』の上演。毎年なにかの作品がとりあげられる真山作品のなかにあって、メジャーな題材のわりに近年では上演されない。それにはやはり理由がある。まずは登場人物とものがたりが雑多で整理されていないこと。八重菊の家以降はまだすっきりとしているのだが、とくに序幕はゴタゴタとしていて興をそぐ。また、真山青果ならではの酔わせるようなセリフがじつにすくない。歌舞伎役者が大舞台でやるより、テレビドラマなどでやったほうが生きる台本のようにも思える。歌舞伎らしくないと言えば、大詰の旅籠の場面の役者の居所などもそうだ。歌舞伎に限らず日本の伝統的な演劇では狭い部屋などにおいては上手が上座になるが、この場面などは舞台中央が上座になり、目下のものが上手に行く。まあそういう演出なのだと言えばそれまでなのだが、やはり違和感はのこる。
そんななか松本幸四郎を中心とした役者陣の芝居はそれなりに充実している。幸四郎はそもそも辰五郎を演じるにはニンがちがうだろうが、リアルで控えめな芝居が前述のような作品のテイストと合っている。たいする会津の小鉄を演じる中村勘九郎は、直線的な芝居がこれまた役に合っている。幸四郎よりは歌舞伎味を見せているのも勘九郎らしいし、父親とは違うその硬質な特質をうまく生かして手強く好演している。歌六は序幕は印象が薄いが、二条城堀外での長台詞はさすがのひとこと。この作品が真山青果であることを再認識させる唯一の場面である。中村七之助の八重菊は一座のなかでもっともこってりとしており見ごたえあり。中村獅童は意外な怪演で目をひくが、声色を作りすぎているのが違和感がある。
令和の歌舞伎界を牽引していく両輪は松本幸四郎と市川猿之助だろうと思われていたが、その猿之助はいまここにいない。そこで中村勘九郎と中村七之助のふたりの存在が、あらためてクローズアップされることになるだろう。幸四郎ひきいる旧吉右衛門系の一座と彼らの共演が増えればその座組に厚みがでるし、中村屋兄弟にとっても重厚な演目での活躍がひろがることにつながるはずだ。なかなか相性のよさそうな幸四郎と中村屋兄弟の競演がこれまで以上に増えることを祈る。
休憩を挟んだあとは、坂東巳之助と中村児太郎のふたりによる『団子売』で打ち出し。まだ息がピッタリとは言いがたいが、踊りのうまいふたりがきっちりと踊っているのが心地よく、重厚な竹本とも合っている。とくに巳之助の無駄のない動きには目を奪われる。この世代にこれだけ踊れる役者がいることには期待しかない。