黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『ODESSA』(東京芸術劇場プレイハウス)

 

三谷幸喜作・演出の『ODESSA』を観る。三谷とってはひさびさの新作舞台ということだが、結果から言えば作品、演出すべてにおいて高水準の出来にこころからの拍手。正直なところ、近年の三谷幸喜の舞台はどこか間延びしたものもあり、役者のそれぞれのノリにまかせているようなところが見受けられた。それはそれでひとつのスタイルの変化なのかと感じていたが、今回の『ODESSA』を見て、やはり計算された糸が張り巡らされてこそ、流行り廃りとは別次元の三谷幸喜らしさが出るのだと思われた。

登場するのは、連続殺人の容疑者としてよばれた英語を話さない日本人の男(迫田孝也)、取り調べを行う日本語を理解しないアメリカ人巡査部長(宮澤エマ)、そしてふたりの通訳としてよばれた日本人の青年(柿澤勇人)という三人だけ。一般に三人の登場人物が舞台上でふたりになったとき、その三通りの組み合わせによってドラマが重層的に発展するというのは、よくある古典的な作劇法のひとつ。今作はそのきわめて意欲的なヴァリエーションというものだ。日本語で意思疎通するペアと、英語で意思疎通するペアが、舞台上にどうじに存在しながら、言語の壁によってまったく違ったコミュニケーションを行うという例を見ない面白さ。それに英語パートで映し出される字幕そのものも別のリズムでかきまわして一役買う。まずはその構造がとにもかくにも優れており観る価値がある。

推理もの的なサスペンスの要素があり、それが彼一流のたび重なるどんでん返しになる構成。とくに三谷幸喜のファンでなくとも、それはよくもわるくもラストまで読めてしまうためインパクトこそない(舞台セットの奥に並べられたマトリョーシカがそもそもそれを暗示している)が、それでも見事と観客を唸らせるのがさすがで、もはや伝統芸能と言ってよいだろう。

三人の演技も作品に負けず秀逸。というよりも、彼らのこの演技かなかったら(いささか倒錯した話だが)そもそも今作は書かれなかっただろう。英語のセリフが圧倒的におおい宮澤エマと柿澤勇人のバイリンガルな芝居には圧倒されるが、迫田孝也をふくめ三人ともそれぞれに垣間見せる内面の多重な演じわけがうまい。言語によるコミュニケーションの壁という表層のテーマは、もちろん国家・民族間のコミュニケーションの壁でもあり、もっとひろく言えば他人とのそれでもある。また他人に見せる外面と、見せることのない内面とのあいだの矛盾でもあるだろう。それが役者の演技そのものからうかびあがってくるのが素晴らしかった。

三谷幸喜の近年の舞台には欠かせない荻野清子の楽曲と演奏が、このきわめてシンプルなドラマによりそっている。ここまで「さりげない」音楽だったのは珍しいくらいに控えめで、それがまた絶妙。役者のマイクバランスもふくめた、音響スタッフの仕事のていねいさもその印象を強める。

 

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