黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

十二月大歌舞伎第一部(歌舞伎座)

 

新開場した歌舞伎座の十周年の記念したこの一年、その最後をかざるにふさわしい破壊力をもった演目だ。中村獅童と初音ミクによる超歌舞伎『今昔饗宴千本桜』のことである。

この作品について、いまさら画期的だというつもりはない。この超歌舞伎シリーズはこの何年ものあいだ獅童によってさまざまな劇場で上演されてきた。幕張メッセで目のあたりにした、観客たちのとりつかれたようなあの熱狂から、もう何年も経つ。すでにおおくのファンを生み、あたらしい可能性をわたしたちにしめしてくれている。江戸時代の黎明期に歌舞伎が本来持っていたエネルギーは、まさにこの超歌舞伎のようなものであったに違いないと思わせる、圧倒的な求心力で客席を支配するさまは驚異的だ。そういう意味では、あたらしいとどうじに歌舞伎の原点を感じさせてくれるシリーズなのだ。

それでもやはり画期的といわざるを得ないのは、これが歌舞伎座の大歌舞伎本興行という本家本丸で上演されるということである。歌舞伎座再開場十周年のラストに超歌舞伎が選ばれたのは、もちろんコロナ以降の深刻な観客離れに悩む松竹の策だった(じっさいに客席は満員御礼である)のかもしれないが、結果的につぎの十年を楽しみなものにする英断だったといえるだろう。

中村獅童演じる佐藤忠信や澤村國矢の青龍が、純粋に歌舞伎としてみても水準の高い芝居を見せてくれていることも、このプロジェクトがたんなる話題性だけのものでないことを証明している。獅童はほんとうにこの数年、歌舞伎役者として格段にスキルアップした。忠信役者としては第一級だし、次世代の熊谷や知盛は獅童かと思わせる充実ぶり。國矢の敵役としての存在感、口跡のよさはあいかわらず素晴らしい。

初音ミクと歌舞伎の親和性については、以前も書いたとおりである。存在していないものを(が)存在するように見せる(見える)という、演劇のきわめて古典的なテーゼをある意味ではっきり具体化している。幽玄なるもの、つねならざるものへの憧憬は、おおくの歌舞伎作品に登場するテーマ。ヴァーチャルなものへの共感、憧れを隠すことがないいまのサブカルチャーと歌舞伎がみごとにかさなりあって、このうえなく現代的である。

ただ、何年もつづいているシリーズにしては、本質的な部分で初音ミクの芝居がうまくならない。以前は効果的に使用していたスモークによる演出がなくなり、たんに平面に映しだされることがほとんどで、かえってその輪郭の不自然なビビッドさが悪目立ちする。安易にムービーシーンを多用するのも舞台作品としては残念だ。テクニカルな面でも芝居の面でも、彼女のさらなる成長をのぞみたい。

台本や演出にも問題はたくさんある。序幕はあまりに台本が整理されていない。時代物における発端の場が冗長でドラマに欠けるのはいまにはじまったことではないが、そんなことまで踏襲することはないだろう。せっかく参加した中村勘九郎と七之助兄弟も、取ってつけたような出番しかない。これではただの友情出演(そうなのかもしれないが)にすぎない。歌舞伎の演目としてもっと再演をかさね成長していくには、いろいろな役者が参加できることが不可欠で、そのためにはその役者の見せ場や参加する必然性を確保しなければならない。また序幕といえば、あまりに大道具が古典的すぎてにつかわしくないのにも閉口した。先日の『文七元結物語』の大胆なセットを思えば、アイディアひとつでもっと可能性があるだろうに。まだ二日目だから仕方ないのかもしれないが、ありえないようなマイクノイズや音声トラブルの連続。そして生音とマイクをとおした音とのバランスを見つけていくのも、今後の課題だろう。

しかし、すべての疑問点は大詰になってふっとんでしまう。佐藤忠信が客席に呼びかけ、桜の花をみんなで咲かそうというクライマックスはなんど観ても圧倒的。前口上で獅童が客席に質問したときにわかったことだが、客席の過半がはじめて超歌舞伎を観るのだという。そんな観客たちが、幕切れには獅童に煽られてペンライトを振り声をあげている。もともとの超歌舞伎のファン層らしい若い女性や、オタク然としたオジサンたちだけではない。年配の御婦人やきむずかしそうな白髪の紳士までもが立ちあがって手拍子をしペンライトを振るのである。超歌舞伎が、超歌舞伎ファンだけでない層をもしっかりと巻きこんでいるさまは、歌舞伎がまだまだ生きたジャンルであることを確信させる光景だ。

幕が閉まったあと、数分におよぶ長い長い拍手がつづいた。あきらめずに手をたたきつづける観客にこたえてふたたび姿を表した獅童。「あたらしい歴史をつくりましょう」といったそのちからづよい挨拶は、この役者が生みだす歌舞伎を今後ものがさず観たいと思わせるものだった。