黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

川島素晴 plays... vol.2 “無音” (旧東京音楽学校奏楽堂)

 

梅雨も明けた真夏日、緑にかこまれた上野の旧奏楽堂。作曲家・川島素晴プロデュースのいっぷうかわったコンサートが開催された。ジョン・ケージの代名詞ともなった(それはそれで本人は不本意だっただろうが)名曲「4'33"」をはじめとして、川島自身の新作もふくめ「無音」を聴くことにこだわった曲をあつめた意欲的なプログラムである。

コロナウィルスの影響で、世界中のホールや劇場から音楽や演劇といったパフォーミングアートが姿を消してから数カ月。すこしづつそれらは活動を再開しつつあるとはいえ、まだまだその機会はおおくない。ホールで音楽を聴くということの意味を、もういちど考えさせる素晴らしい企画であった。

 

開演時間である16時4分33秒にさきだつこと4分33秒。プロジェクターが映像を壁に映しだす。カメラにむかってかかげられたストップウォッチが、開演に向かってクロースアップ(実際にはストップウォッチを手にした川島がカメラに近づく)されていく。

一曲目はアルフォンス・アレーの「偉大な聴覚障害者の葬儀のための葬送行進曲」(1884)。小節線のみが記された白紙の楽譜からなるこの曲を、指揮をする川島は四拍子で振っていく。7名の演奏者は弾く素振りは見せるがいっさい音は出さない。かなりフレージングもはっきりしたなかなか熱い演奏だが、「演奏者は拍を数えることのみに専念」という作曲者のコメントからは異色の演奏か。

2曲目はエルヴィン・シュールホフの『5つのピトレスク』より第3曲「未来にて」(1919)。無数のこまかくならべられた休符を川島がピアノに向かい「弾いて」いく。

イヴ・クライン作曲の交響曲「単音−沈黙」(1949)は、20分にわたってひたすら同一音のロングトーンが演奏され、そのあとにやはり20分間の「無音」がつづくという作品。読経と座禅のようなある意味で演奏者にも指揮者にもハードな時間だが、音を聴きつづけたことで、そのあとの静寂もまた「聴かれるべきもの」に変質しているように感じられるのが面白い。

 

前半の最後にピアノで演奏されたケージの「4'33"」(1952)は前代未聞のじつにショッキングな演奏だった。もっとも一般的な演奏は、ピアニストがビアノの前に座り、ピアノの鍵盤の蓋をあえて開け演奏を開始するというものだが、なんと川島は椅子に座り第一楽章がはじまるやいなや開いていた鍵盤の蓋を閉めてしまう。第二楽章になると、こんどは立てられていた譜面台が静かに倒される。第三楽章になり、ピアノの響板も閉じられる。つまり、「無音の曲を弾く」パフォーマンスをするのではなく、「能動的に演奏しない」のだ。だれもが「無音」を「演奏しようとする」この名曲を、「演奏しない」という衝撃的な光景。そしてその演奏を拒んだ川島の身体と閉じられたピアノを見て、沈黙のなかに言葉にならないふかい感動がもたらされ、おもわず涙がこぼれた。

 

休憩時間はサティの「家具の音楽」がその意図を最大限に活かしながら鳴りつづけていた。

 

休憩がいつ終わったかも曖昧にされるなか、演奏者である川島が舞台からじっと客席を見ている。ラ・モンテ・ヤング作曲の「Composition」(1960)の6曲目で「舞台から客席を(客席から舞台を観るように)観る」という作品。「見る」ということはこの空間と時間のなかで「聴く」ということでもある。観客/聴衆でもあるわたしたちは、このときこの作品を「見るもの/聴くもの」であるとどうじに「見られるもの/聴かれるもの」になっている。きわめて厳密な意味での双方向的作品といえる。映像配信ばかりの今年の音楽シーンのなか、わたしたちがホールに足をはこんでその場にいるということの意味を突きつけられた気がした。川島はコミカルに演奏して(演じて)いるが、そういう意味ではシリアスに淡々とした演奏でも聴いて(観て)みたい。

 

ピアノのオルガントーンが鳴り響くリゲティ作曲の「デイヴィッド・テューダーのための3つのバガテル」(1961)は聴衆にある種の「耳」を要求する作品。

つづくケージの「Song Books」(1970)は、いまとなってはやや面白味に欠けるようにも思えた。

杉山隼一の「視覚音楽 I」(2015)は「4分33秒間この五線紙を見続けなさい」とだけ楽譜に書かれた作品。ケージ作品へのオマージュでもあり、川島のブログによればすでに破棄された「もはや存在しない作品」だとのことで、まさに「無音」のコンサートにふさわしい一作と言える。

舞台初演となる松平敬の「心の中で歌う」(2020)は、学校の音楽の時間において「今は歌は心のなかで歌いましょう」などというファンシーな教育が行われていることへの、このうえなくシンプルな皮肉。

 

ささきしおり作曲の「ユビキタス“S”」(2020 / 委嘱新作初演)は、前半のケージの「4'33"」の川島の演奏とならんで、たいへんこころを動かされた作品。

スクリーンに映し出されるのは森のなかにおかれた白紙のスケッチブック。自然の環境音のなか、川島がそこに青いペンで無数の曲線を延々と描いていく。なるほどそういう映像作品かと思いのほか、やや遅れてこんどは袖に控えていた川島があらわれ、舞台のうえにおなじようにおかれた白紙のスケッチブックに、やはり線描をはじめる。だが先行する映像とはことなり、舞台上の川島のペンは空を切るばかりで「なにひとつ描かない」のだ。

映像のなかのどんどん書き込まれていくドローイングと、なにも描かれない舞台上のスケッチブックのあいだに一瞬にしてうまれた、ふたつの世界の重なり。そこにあるのは「書かれるべきもの」と「書かれなかったもの」であり、「聴かれるべきもの」と「聴かれなかったもの」だ。それは、この数カ月のあいだに数えきれないほど存在した「聴かれるべきだったコンサート」と「聴かれなかったコンサート」でもあるだろう。

 

最後を締めくくるのが川島素晴自身の新作である「Exhibition 2020」の初演。川島をふくめた8名がそれぞれの楽器を持ちながら、10のキーワードをその身体で表現していくユーモアあふれる作品だ。ゆったりとした動きから、突如のストップモーションが切り取る静止画的な面白さ。その「静/動」がもたらすエネルギーの流れに、なるほどこれも音楽かと納得させられる。なかでも、3列にわかれて楽器をかまえただけで「完全5度」をみごとに表現したのには、おもわず(まわりが誰も笑わないから我慢したが)爆笑しかけてしまった。

 

いま聴くべき音楽を「聴く」ことができた充実した120分。大満足で奏楽堂をあとにした。

 


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新国立劇場『フィレンツェの悲劇/ジャンニ・スキッキ』(新国立劇場オペラパレス)

 

ふたつのオペラを組み合わせた、いわゆる「ダブルビル」シリーズの第一弾として、ツェムリンスキー作曲『フィレンツェの悲劇』とプッチーニ作曲『ジャンニ・スキッキ』が取り上げられた。演出は粟国淳、指揮は沼尻竜典。

 

二十世紀初頭のほぼ同時期に作曲されたこのふたつのオペラは、フィレンツェを作品の舞台としているという共通点を持つ。フィレンツェはいまでこそレトロな街並みが楽しめる観光地であるが、これらのオペラの舞台として想定されている中世末期の共和制のはじまりからルネサンス期にかけて、かの街はヨーロッパ屈指の商業都市であった。その発展をささえたのは金融業と毛織物工業であるが、それはまさに、お金とファッションという実態のない人間の欲望の象徴でもある。『フィレンツェの悲劇』と『ジャンニ・スキッキ』を並べたとき、モチーフとしてそのふたつを容易に頭に浮かべることができる。

 

粟国の演出は理詰めというよりもきわめて感覚的なもの。どちらのオペラも、イタリア的な色彩を感じさせる、かなりデフォルメされた美しい舞台装置(横田あつみ)のなかで演じられる。

『フィレンツェの悲劇』では崩壊しふたつに割れた建物(破綻した夫婦関係を連想させる)が中央にそびえ、そこから巨大な布のようなメタリックなオブジェが冷め固まった欲望のごとく流れ出ている。無数の糸を紡ぐ糸車が象徴的に舞台にならぶ。高価な織物を売りつけるシモーネ、交換対象として浮気相手であるシモーネの妻を求めるグイード。欲望の対象としてのモノを金でやり取りすることが暗示されるなか、最後は暴力によって権力を持つものが残るという、オスカー・ワイルド(原作)にしてはいささか観念的にもとれる話。

このシンプルなストーリーを、粟国はそれらの象徴的な部分にひかりをあてるでもなく、また内面のドロドロした三角関係の心理劇を強調するわけでもない。歌手の動きも基本的なオペラ芝居の典型を出ない。よく云えばオーソドックスな、古き良きイタリアオペラ(これはドイツ語の作品だが)のレパートリー公演を観ているようである。それがはたしてツェムリンスキーの豊麗な音楽の世界にあったものだったかといえば疑問は残る。あちらこちらにある心理的なポイントはことごとくスルーされてしまう。とうぜんのことながら、愛する恋人を殺した夫への愛を妻が突然歌いあげるという唐突な結末は、説得力がないままだ。権力が生みだす倒錯的な欲望をみせるこの衝撃的な結末は、説得力をもって示されてはいない。

『ジャンニ・スキッキ』では巨大なスケールの机が基本舞台で、そのうえにはこれまた巨大な本や文房具にまじって経済活動の象徴である天秤測りが鎮座している。あまりにおおきなオブジェたちのあいだでたくさんの登場人物たちが右往左往するさまは、それだけで欲に目がくらんた凡夫たちの哀れさを強調していて大成功。アクティングエリアとなるその机の面は、オーケストラピットに迫るぎりぎりまで迫り出した八百屋(傾斜のある舞台)になっており、そのうえで歌い演じる歌手たちはヒヤヒヤだったのではないだろうか。だがそのシチュエーションそのものが、ともすれば破滅に向かって転げ落ちてしまいかねない強欲な人間の危うさは確かに表現している。ソリストたちのカラフルで個性あふれる衣装も、それぞれの性格をあらわしており見ていて面白い。

天秤の片方に死んだブオーゾの遺体を乗せ、もう片方に金貨を乗せるシーンがあり「人間の価値と尊厳に値をつける」ことにブラックなユーモアを感じドキリとさせられたのだが、その後天秤はかなり無造作にいろいろと使いまわされており、せっかくのその存在はいささかぼやけた。このあたりが粟国の演出が良くも悪くも感覚的というところである。

ブオーゾが息を引き取り、かつスキッキが隠れるベッドは、巨大な本(タイトルはダンテの『神曲』と読める)。表紙をめくったなかは「地獄篇」の挿絵(ドレによる有名なもの)だが、それはジャンニ・スキッキの名前が登場する第三十章のものではなく、第十章のファリナータについてのそれである。それはたまたま選ばれたものなのか、それともそこに意味を見出すか、考えてみるのも面白い。

 

キャストでは『フィレンツェの悲劇』の分厚いオーケストラのサウンドのなかにあって、レイフェルクス、グリヴノフ、齊藤純子の三人がいずれも難易度のあるこの曲を一定の水準で聞かせる。とくにグイードを歌うグリヴノフの歌の確実さが際立っている。

『ジャンニ・スキッキ』のタイトルロールを演じたカルロス・アルヴァレスがその歌唱といい、色気のある存在感といい、ひとり抜き出ている。立ち居振る舞いがこのうえなく自然で、ここまでリアルに動けてはじめてこのデフォルメされた舞台装置が生きる。圧倒的に存在するもの云わぬ「物」と、それを前にしたナマの「人間」との対比が出るからである。そのアルヴァレスの「余裕」とも云ってよい舞台におけるありかたが、そのままジャンニ・スキッキという役にリアリティをあたえている。ブオーゾの真似をする声色も、十二分にホールに響き渡っており、かつその使いわけもうまい。さぞや手に入った役かと思いのほか、これでロールデビューというからさすがだ。

ラウレッタの砂川涼子、リヌッチョの村上敏明がさすがの安定した歌唱を聞かせる。とくに砂川は、ラウレッタのなかに本来ありながら見過ごされがちな凛とした強さがあり、その存在感が際立っていた。

まわりを固めるソリストのなかでは、ネッラを歌う針生美智子のひときわ伸びのある美声が印象的。志村文彦の安定した歌唱と存在感も目にとまる。志村のような脇をかためる素晴らしいソリストを擁していることは、新国立劇場の財産であろう。

 

 

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新国立劇場『紫苑物語』(新国立劇場オペラパレス)

 

佐々木幹郎・台本、西村昭・作曲の『紫苑物語』の世界初演。大野和士の指揮、笈田ヨシの演出で。

 

石川淳の同名の傑作中編を原作としたこのオペラは、今シーズンから新国立劇場オペラ部門の芸術監督に就任した大野和士の、新国立劇場から世界へ発信できるオペラを、との想いにより生み出された。

 歌人としての才能を父との確執により封印した宗頼は、叔父に手ほどきを受けながら弓矢の道を歩む。国司として地方へ派遣された宗頼が出会う、「血のちがうものども」、そして武による征服と破滅。それは主人公がアイデンティティを求める物語のひとつとしても捉えることができる。芸術家の欲望は世界を創造し、また崩壊させる。

オペラ化にあたってはかなり大胆にさまざまなことが変えられているが、舞台化にあわせて構成上さまざな工夫が必要なことは当然だとしても、テーマと巧みに張り巡らされた「結構」さえも無にしてしまっている部分もあるようだ。

原作では、宗頼が和歌の道を突如として捨てたのは、おのれの歌作において熟慮のうえ選びだした言葉を、父に添削されたことによる。ひとからも天才と云われ、自信もあったはずの「世界を手にしていた全能感」を打ち砕かれた彼にとって、父とはまさに去勢する父権的存在だ。その抑圧された欲望はある日、狐と家来を射殺したその瞬間、弓矢で生きるものの命を奪う暴力として突如姿をあらわす。しかもその無意識の構造に宗頼自身は気がついていない。彼がふたたび芸術と向き合うのは、山のうえで仏師・平太と出会ったときである。

しかしオペラの宗頼は、「古い言葉を組み合わせるだけの歌道には芸術的な価値はない」と云って能動的にその道を断つ。そしてそれに代わるものとして武の道を選ぶのだということに重点が置かれている。こうなると、既存の芸術はもう古いからこれからは行動あるのみだ、というような、よくあるアーティストの陳腐な自分探し物語にもなりかねない。

宗頼は歌の道を「断つ」のではなく「断たれる」ことに意味がある。宗頼の欲望を抑圧するのは父であり、同時にそれはこの世界を成り立たせている、無力な人間のちからでは如何ともしがたい巨大な壁である。そういう観点においては、父親役をコミカルなテノールの道化役にしたことに疑問がわく。たしかに原作でも旅立つ宗頼に矢を射かけられ狼狽する父親の姿は描かれてはいるが、それは宗頼の主観からの父親像であり、舞台としてキャラクターが可視化してしまうと、一瞬にして父親の物語上の重要な役割が意味を失ってしまう。父親役は重厚なバスまたは黙役であっても良かったかもしれない。なぜならその存在は、終幕において宗頼が矢で打ち負かすべき石の仏でもあるからだ。

 

西村の音楽はこの作曲家一流の緻密で豊饒な音響に満ちており、本人がこれまでの集大成と語るように、聴くものを陶酔させるきわめて完成度の高いもの。そのどこまでも続くエモーショナルなうねりは、スタイルは違えどシュトラウスの『エレクトラ』を思わせた。冒頭の狂気に満ちた宴のシーン、千草が正体を明かした狐言葉(歌舞伎の手法を思わせる)、いささか古典的ではあるが緊張感あふれた宗頼と叔父との対決など、くっきりとドラマを視覚化している。

ただし、まったくとは云わないが、歌詞を観客に聴き取らせることにほとんど関心が払われていないようだ。ある程度のイントネーションは尊重されているとは云え、はなからオペラの歌唱は歌詞が聞こえないものとして作曲されているように思えてならない。パンフレットに掲載された座談会のなかで西村は「とうとうたらり」という歌詞を「意味がわからない言葉」と語っているが(能楽の『翁』の冒頭に謡われるこの言葉が、水の流れるさまを写した擬音であると同時に、その意味内容を剥がされた呪術的な詞章であるという二面性をもつということを、まさか知らないわけでもあるまいが)、しかしながら意味はわからなくともその言葉が音(オン)としては識別できるからこそその無意味性が面白さをまとわせるのであって、それは歌詞が聞こえなくてよいこととはまったく違う次元の話のはずなのだ。

また、有意味な言葉と同じくらい「あぁ」や「おぉ」といった感嘆詞のヴォカリーズが全編をとおして挟まれているが、歌詞が判別しにくいために、歌詞がついている箇所とそのきわめて技巧的なヴォカリーズはほとんど等価なものになっている。結果、登場人物はなにか溢れんばかりの感情があるのだな、と知れるばかりである。なぜその感情の発露が、言葉がのせられたフレーズでも同じように可能だと考えられないのか不思議だ。だいいち、わたしたちは感情が昂ぶったとしても、日頃から「あぁ」とか「おぉ」とか声を発しているだろうか。(いるかもしれないが)

監修の長木誠司の言葉によればこの作品は、「ワーグナーの『悪い』影響で、延々とモノローグが続いて実にたるい、日本オペラの『オペラらしからぬ欠点』は、可能な限り回避」するべく、重唱部分を意識的に取り入れている。大野和士も「重唱のオペラだといって良いアンサンブルがたくさんあります。私はあえて、『日本オペラに革命が起こる!』と言いたいのです」と語りその特徴をあげている。もちろんその形式的な面白さはたしかにいたるところで感じられたが、歌詞にたいする配慮はなされていないので、聞こえなさは当然のことながら助長される。大野の云う「日本オペラの革命」とは、まさか歌詞を聞かせる努力からの開放を意味するはわけではあるまいに。

 

そんななか、キャストたちの驚嘆すべき歌唱には最大級の賛辞を送るべきだ。これほどの複雑で人工的なフレーズを精緻に歌いこなし、分厚いオーケストラのサウンドを突き抜けて声を響かせている。そして歌詞が聞こえにくい音楽のなかにあっても、一部の歌手はそれでも少しでも歌詞を聞かせようというプロフェッショナルな姿勢を見せた。なかでも、うつろ姫役の清水華澄は、ソプラノがこのようなフレーズを歌うにあたって他に類を見ないほど驚異的に歌詞が聞こえる。

いつもながらサウンドと音程の素晴らしい新国立劇場合唱団、複雑な音楽を熱量たっぷりに演奏した東京都交響楽団の演奏も特筆。

そして芸術監督就任後はじめて指揮台に立った大野和士の棒は、きれいにまとめるよりも(もちろん十二分にアンサンブルをまとめあげてはいたが)、むしろドラマとしての流れを作り出すことに意識を注いで成功している。神経をつかうであろうこういった現代作品の初演にありながらそれを全うする、そのオペラ指揮者としての姿勢と技術に脱帽である。

ことさら日本という舞台にこだわることなく作られたセットと衣装のなかで、きわめて集中力ある舞台を提供した演出の笈田ヨシ。鏡とそこに映し出される映像とを効果的につかい、物語世界に力強い骨組みを与えていた。序曲のなかで「和歌から弓矢へ」という黙劇をみせるのは、そののち繰り返されるエピソードとあまりに重複してやや過剰か。

 

 

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東京二期会『三部作』(新国立劇場・オペラパレス)

プッチーニ『三部作』(『外套』『修道女アンジェリカ』『ジャンニ・スキッキ』)

 

【指揮】ベルトラン・ド・ビリー

【演出】ダミアーノ・ミキエレット

【出演】今井俊輔、文屋小百合、芹沢佳通、小林紗季子、北川辰彦、新津耕平、船橋千尋、与田朝子、石井藍、郷家暁子、福間晶子、高品綾野、高橋希絵、鈴木麻里子、小出理恵、中川香里、前川健生、原田圭、小林啓倫、後藤春馬、岩田健志、高田智士、岸本大

【合唱】二期会合唱団、新国立劇場合唱団、藤原歌劇団合唱部

【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

 

9月9日(日)千秋楽。才気あふれる演出家と熟練の指揮者のもと、二期会の若手の健闘によって、近年の二期会の舞台のなかでは群を抜いて素晴らしいものとなった。

 

プッチーニのオペラ『外套』、『修道女アンジェリカ』、『ジャンニ・スキッキ』は一夜のうちに続けて上演する『三部作』として、一九一八年にメトロポリタン歌劇場で初演された。しかしながらそれぞれが一時間足らずのこの三つの作品は、内容的なつながりの希薄さ、舞台装置やキャスティングにおけるコストパフォーマンスの悪さなどから、作曲者の意図に反して初演後かなり早い段階で解体され、個々に他の短いオペラと抱き合わせで上演されるケースが増えていく。今日において「あえて」それを『三部作』としてまとめて上演するには、博物誌的な意味以上の積極的な理由が求められるが、ミキエレットの演出は見事にそれにこたえるものであった。

大きないくつものコンテナを共通の舞台装置として展開する三つの作品でえがかれているのは、広い意味での「欲望」の物語である。

そしてその生々しい内面を包み隠すアイテムとして「衣服」が効果的に用いられる。

 

『外套』は船長ミケーレが、歳の離れた若い妻ジョルジェッタと部下の沖仲士ルイージの不倫に悩み殺人にいたる、ヴェリズモ的な要素のある作品。幕切れ近くに「ひとは誰も外套を持っている。それは喜びを隠し、悲しみを隠し、ときには犯罪をも隠す」とミケーレが歌う歌詞が示すとおり、コートが本心を覆い隠すという役割を担っている。

もう一点重要なアイコンは「赤い」靴である。ジョルジェッタが生まれ育ったパリでの幸せだった暮らしを思いをはせるシーンで、舞台上から「赤い」靴が降りてくる。また、ミケーレがジョルジェッタとのあいだにもうけながら死なせてしまった幼子の思い出として、コートのポケットに忍ばせているのも「赤い」子供の靴だ。いまここにはない、彼らが欲望する対象の象徴として、きわめてわかりやすく観客の前に提示されている。プッチーニはオペラ化に先立って『外套』の演劇版をはじめて観たおりに、真っ赤な鮮血の色をイメージしたとのことだが、この舞台で「赤い」色が象徴するものは少なくない。

難役ミケーレを演じたのは今井俊輔。直情的だけではない、失われてしまった妻との愛をもう一度取り戻そうと揺れ動くさまを丁寧に演じ、この役の現代的な側面を見事な歌唱力で歌いきった。

なんといっても圧巻は文屋小百合。ジョルジェッタと続く『修道女アンジェリカ』のタイトルロールとを一人二役で歌い通したスタミナもさることながら、完璧ともいえる歌唱に、役になりきった自然な演技。

 

ジョルジェッタをセンターに残したままブラックアウト。わずかな間をはさんで照明がつくと『修道女アンジェリカ』がはじまる。前述のように文屋はいどころそのままに続けてアンジェリカを演じる。もちろん二人の女性は役としては別人格だが、子供を失った母親であるジョルジェッタと罪を犯してしまったミケーレの、いずれもを引き継いだ存在としてアンジェリカは位置づけられる。

『修道女アンジェリカ』はもともとは修道院での物語だが、今回は女性刑務所に読み替えての舞台。(宗教上の)罪にある女性が贖罪のために入れられる場ということから修道院=刑務所というイメージはけっして新しいアイディアではないが、リアルに刑務所内の生活を描写するミキエレットの演出は歌詞と合わせて目にしても非常に説得力のあるもの。

前場に引き続き、「赤い」子供の靴が登場する。アンジェリカは未婚の関係から子供を生んだという罪により、子供を残し修道院に入れられている。云うまでもなく、生き別れになった我が子に会いたいという欲望の象徴である。

面会に来た叔母の公爵夫人から子供はすでに死んだ(今回は実は死んでいないのに公爵夫人が嘘をついたという設定)と聞かされ絶望するアンジェリカの前に、八人の子供のまぼろしが現れる。子供たちは服を脱ぎ、靴下を脱ぎ、下着だけの姿になるのだが、この脱衣行為も「我が子に会いたい」というアンジェリカの抑圧していた欲望を開放することを示している。そしてアンジェリカは脱ぎ捨てられた服を丸めて自らの服の中に詰め込みお腹を膨らませることで、妊娠経験を追体験する。

ここからフィナーレまで、音楽的にもきわめて難易度の高い場面を歌いこなしながら、アンジェリカが幻想に取り憑かれていくさまを文屋が見事に演じきった。しかも『外套』から歌い続けて、という前代未聞の大健闘である。

聖母マリアの奇跡により亡き我が子とともに昇天する奇跡という結末は剥奪され、アンジェリカは自ら手首を切り絶命する。救いは次の幕へ持ち越されることになる。

 

休憩をはさんで、一転して明るい『ジャンニ・スキッキ』となるが、演出家ミキエレットの仕掛けがいたるところに張り巡らされており、単純な喜劇では終わらない。

ブオーゾの遺産を狙って滑稽な争いを繰り広げる親族たち。彼らが醜い欲望を胸に秘めながらブオーゾの遺体を囲むとき、手にしているのは火の灯された「赤い」ロウソクだ。そして、欲に目がくらんだ彼らは上着やシャツといった衣服を「脱ぎ捨て」狂乱する。『外套』『修道女アンジェリカ』から引き継がれた人間の「欲望」は、カネに群がる愚者たちの喜劇という、もっとも現代的でわかりやすい様態を見せるに至る。

その現代社会への批判的なまなざしは、次の点でより明確に示される。すなわち、ブオーゾの家の玄関は、メインのアクティングエリアのある一階にある。このことは家を出入りする人物の動線からも明らかだ。しかしそれにもかかわらず、唯一ジャンニ・スキッキとその娘ラウレッタだけは外から来訪するにもかかわらず二階から登場するのである。そしてそののち、親族たちに乞われて階下へ降りていくのだ。欲望のままに迷える愚か者たちと、その者たちから搾取するものとの関係が、きわめて効果的に暗示されている。

ジャンニ『外套』でミケーレを歌った今井が好演。ただしこれは今井の責任ではないが、ジャンニがブオーゾになりすましてロバや製粉所、家屋敷を自分のものにするという、三段構えの騙りの見せ場がいまひとつ盛り上がらなかったのは残念だ。いくらミエミエの「騙り」であっても、ここで笑いを確実に取らなければ大仰な音楽が空回りしてしまう。ジャンニのイキ、まわりの受ける芝居にひと工夫必要で、演出家に再考を促したい。

今井の他にはリヌッチョの前川健生、シモーネの北川辰彦が歌、演技ともに目を引く。

フィナーレになり、ブオーゾの家であった舞台セットは突如としてたたみこまれ、コンテナのある『外套』の場面へと姿を変える。今井演じるジャンニ・スキッキはコートを着て帽子をかぶりミケーレの姿になっている。ミケーレのまなざしの先には、結婚をゆるされたリヌッチョとラウレッタ(お腹に子供がいることが暗示されている)の二人。それはミケーレがジョルジェッタと愛し合っていた幸せな過ぎし日への追憶なのか。それとも若い二人がこれから紡ぐ未来へ託す希望なのか。循環か、開かれた未来か。そしてそこには欲望の、いやいまや希望となった「赤い」靴が。いずれにも見える幕切れは、見事に三つのオペラを『三部作』として上演するにふさわしい感動的なものであった。

 

全体をとおして、ベルトラン・ド・ビリーの緻密な音楽づくりが特筆もの。いわゆる「イタリア的」な要素は希薄だが、かわりにもたらされたスタイリッシュな音楽の運び、個々のシーンをつくりだす繊細な音色は、「映画的」面白さにあふれた今回の舞台にふさわしいものであった。

 


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アンドロイドオペラ ”Scary Beauty"(日本科学未来館)

 

2018年7月22日 (日)20:30
日本科学未来館1Fシンボルゾーン

【出演】
コンセプト、作曲、ディレクション、ピアノ:渋谷慶一郎
ヴォーカル、指揮:オルタ2
演奏:国立音楽大学学生・卒業生有志オーケストラ

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ロボット学者石黒浩の作ったアンドロイド「オルタ2」に、人工生命の専門家池上高志の自律的運動プログラムが搭載され、渋谷慶一郎の作曲したオーケストラ音楽を指揮し、自ら歌うという、話題のコンサート。

演奏される曲は、フランスの小説家ミシェル・ウェルベックや三島由紀夫のテキスト、またウィリアム・バローズや哲学者ヴィトゲンシュタインの遺作などをモチーフとし、AIが独自のアルゴリズムにもとづいて自動作曲したものを、渋谷が修正を加えて仕上げたもの。しかしこのコンサートの最大のポイントは曲そのものというより、アンドロイドにどこまで指揮ができるのか、アンドロイドが指揮をしたとき演奏はどのように私たちの想像をこえた新しいものになるのか、ということにつきる。

 

若いオーケストラを前に、オルタ2の両腕は禍々しい軌道をえがき、ときには穏やかに、ときには激しく揺れ動く。暴力的で混沌とした1曲目が終わった時点ではまだ明らかな戸惑いを見せていた観客も、明快なテンポとリズムをもつ2曲目、3曲目と演奏が続くにしたがって異様な空間に引き込まれ、最後は大きな拍手をオルタ2とオーケストラに送る。60分足らずの短いコンサートであった。

 

このきわめて異様なコンサートにおいて、考えなければならない二つの問いがある。

 

まず第一に「オルタ2は指揮をしていたのか」という根本的な問題だ。これは「指揮者はオーケストラの前で何をしているのか」という、より一般的な話と無関係ではない。

指揮者は曲のテンポやニュアンス、構成というものについて、その曲全体あるいは開始部分について明確なイメージをもって指揮をし始める。そして、演奏し始めるタイミングをそろえ、共有すべきテンポを呈示し、微妙な流れの変化にそのつど方向性を与え続けながら音楽と「並走」する。そのためには手の動きだけではなく身体の全体を通して、ブレスつまり息の流れを視覚化してそれを演奏者に伝えることが必要だ。(この点については当プロジェクトでも重要なポイントとして考えられていて、腰骨にあたる部分や肩関節などを含め、総合的な動作でオルタ2が指揮をするように考えられており、それがあの異様な動きにつながっている)

結論からさきに云えば、オルタ2はこれら指揮者の仕事を果たしてはいない。

まず、曲をスタートさせていたのは自発的なオルタ2の動きではなく、オルタ2の横でピアノを弾いていた渋谷の合図(なぜか彼が普通に指揮をしている)や、オーケストラの奏者どうしの息合わせやカウントだ。曲が始まるときにかぎってオルタ2に当たっていたはずの照明が消え、演奏開始後にそっとフェイドインする演出は、神秘的な効果を聴衆に与えたかもしれないが、むしろオルタ2が「演奏をスタートさせていない」ことを見せないために重要な役割を果たしていた。演奏者によってはじめられた音楽に合わせて、オルタ2が指揮をしている「かのように」動き出すさまは現代舞踊のようであった。

次に、流れている演奏にたいしてオルタ2が指揮者としてなんらかの変化を与えられていたかということについても、残念ながらそのような瞬間は存在しなかったと云えるだろう。ある程度優秀なオーケストラであれば、比較的テンポが安定している曲や、パターンがわかりやすい曲であれば指揮者なしでも問題なく「整った」演奏をすることは容易だが、そのようなとき(また、いないほうがマシなくらい下手な指揮者のもとで指揮を無視して演奏せざるを得ないとき)にしばしば行われるような自主的なアンサンブルが今回のオーケストラにあったことは、プロの演奏家であれば容易にわかるはずである。また、指揮者は演奏に対して能動的に関わる存在であることは確かだが、同時に自分の指揮のもとでプレイヤーが奏でている音楽を受動的に聴き、そこからまた影響を受ける存在でもある。そのある意味対等な関係も、この夜の演奏からは感じることは出来なかった。テンポの変化、曲想の変化、フレーズのリスタートにあたって、それとは全く無関係に動くオルタ2の「指揮」は、文字通り空を切る。

 

だが、不思議なことにその残念な結果に聴衆は熱い拍手を送った。Twitterやブログは「大成功」した「歴史的な瞬間」にたいする絶賛に埋め尽くされていた。オルタ2はこの夜「指揮をしていなかった」のにもかかわらず。そこにはないはずのものが、なぜあることになってしまったのか。それがより重要な第二の問いである。

コンセプトを「見せる」ための演出はひじょうによく考えられていた。さきに述べた照明だけでなく、いっけん失敗かと思わせる混沌とした曲をはじめに演奏し、そのあとでリズムのわかりやすい曲でクリアな演奏を聴かせるという構成もなるほどと思わせた。作曲に用いられたいくつもの「遺作」たるテクストのイメージも大きかった。なにより、不気味なまでに人間に近づけられた顔と手を持ちながらあえて無機的な体幹を露出させたオルタ2の「境界にあるもの」としての姿そのものが、あるはずのないものを召喚する媒介としてきわめて優秀な役を演じていた。しかし、それらの演出以上に重要だったのは、公演のウェブサイトやパンフレットに渋谷慶一郎が書いたコンセプトそのものだった。

そのなかには、このコンサートで目指したこと、オーケストラとの練習の中で見出されたこと、そして最終的にその共同作業がどのような演奏に結実したのか、その「物語」が記されている。その「物語」を聴衆は信じたのだ。「このコンサートではAということが行われる」という看板を読み、聴衆は「このコンサートではAが行われていた」と感じる。しかしそれが本当にそうなのかどうか、専門家でなければ検証することは出来ない。それは圧倒的に情報を持っている送り手と確かめる手立てを持たない受け手との、きわめて不平等な関係であり、それこそがあるはずのないものをある「かのように」見せた劇場のプロセニアムなのではないだろうか。それは同時にきわめて「宗教」的な問題である。

 

人工知能(AI)がどこまで人間の仕事や活動に替わるものになっていくのか、様々に論じられるようになって久しい。AIがなにかをするといっても、そのためのプログラムをメタレヴェルで人間が規定している以上、さかのぼって行けば厳密な意味でAIだけで人間を超えていくことは容易ではない。だからこそ、知的な冒険としてAIのもつ可能性を追求する旅は続けられるだろうし、その過程でわたしたちが得ることも少なくないはずだ。

だとするならば、なおさらその旅の行く先を真摯に見たい。アンドロイドが本当の意味で指揮をする姿を見てみたい。そのことで指揮者が果たしている役割がより明らかになるかもしれない。また、アンドロイドが人間になりかわることの「意味」がもしあるとすれば、それをわたしたちに教えてくれるかもしれない。

 

 

 

東京二期会『魔弾の射手』(東京文化会館)

 ウェーバー作曲

『魔弾の射手』(全三幕)

 

【指揮】アレホ・ペレス

【演出】ペーター・コンヴィチュニー

【出演】藪内俊弥、伊藤 純、北村さおり、熊田アルベルト彩乃、加藤宏隆、小貫岩夫、小鉄和広、杉浦隆大、大和悠河

【合唱】二期会合唱団

【管弦楽】読売日本交響楽団

 

千秋楽の7月22日(日)を観る。

 

ドイツロマン派初期を代表するこのオペラは、いまとなってはいささか時代遅れとも思わせるその音楽や物語ゆえか、ヨーロッパにおいても斬新な読み替え演出によって上演されることが多い。今回の二期会も、世界中で物議を醸す演出家ペーター・コンヴィチュニーを迎えての公演である。

 

コンヴィチュニーの演出は取り立てて斬新な部分はなく、むしろ全体的に今日ではオーソドックス(もとは20年も昔のプロダクションだけあって既視感のある)とも云えるテイストでまとめている。その中でもコンヴィチュニーらしい大きな特徴が2点ある。

まず、オリジナルではあまり舞台に登場するシーンのない悪魔ザミエルを頻繁に(しかもファッションショーのように毎回衣装を替えて)登場させ、本来は目に見えない「あちら側」の住人である悪魔を可視化したこと。ザミエルを演じたのは元宝塚スターの大和悠河。客席からは彼女のファンと思われる一群から登場のたびに惜しみない拍手が送られているが、埋めようのないテイストの違いが、本来は不気味で霊(ガイスト)的な「あちら側」の世界である魔の世界や死といったものをいささか陳腐なものに見せている。

もうひとつは、「隠者」のあつかいである。この作品はもととなった原作の段階ではアガーテは魔弾に当たって命を落とす設定であったが、それをオペラ化にあわせて白バラの冠の力で一命をとりとめることに書き換えられた。そこからの一連のなんともご都合主義な結末がこのオペラの情けない部分なのだが、このエウリピデスも真っ青の"deus ex machina"(機械じかけの神)をどう説得性を持たせるかは演出家の腕の見せ所とも云える。コンヴィチュニーは「隠者」を観客席の一列目に座らせ、幕が一旦しまった舞台に乱入する観客代表になぞらえる。この金持ち然とした「観客」が、マックスも赦してやり、一年の猶予期間の後にアガーテと結ばせてはどうかという歌を歌う。神様であるお客様のご意向で無理やりハッピーエンドにするというのはアイディアとしては面白いが、たんに金も出すが口も出すスポンサーを拝んでいるようで(そういう意図なのかもしれないが)これまた陳腐である。

 

演出上の問題点ではあるのだが、演出家の責任の範囲ではない最重要な問題点について。

『魔弾の射手』は、オーケストラ伴奏のつく歌の部分と純粋なセリフの部分をもつ、いわゆるセリフ付きオペラである。(大変残念なことに)日本でのセリフ付きオペラでは少なくない上演形態の悪しき例に漏れず、歌は原語のドイツ語で歌われ、セリフは訳された日本語だ。この段階で、この公演は演劇でもなく、オペラでもなく、ただの奇妙な発表会である。なかでも、ドイツ語で歌うカスパールと日本語で話すザミエルの対話はなんのコントがはじまったのかという噴飯ものだ。そして全編通してオペラ歌手の日本語のセリフのレヴェルは学芸会レヴェルである。

 

音楽面では、指揮者のペレスがウェーバーらしい引き締まりながらも重さのあるサウンドをオーケストラから引き出していたことと、オーケストラピット内のチェロのソロが素晴らしかったこと以外は、特筆すべき成果はなかった。

 

 

 

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「季節をめぐる歌たち」 木下正道 作曲作品個展(東京オペラシティ近江楽堂)

 

2018年6月13日 (水)19:00
東京オペラシティ3F 近江楽堂

【曲目】
☆夏は夜 IV (清少納言) for Soprano, Clarinet & Guitar
☆3つの秋の歌 IV (八木重吉) for Soprano, Flute & Guitar
☆灰、灰たち.. 灰...V for Guitar & Percussion
☆冬のスケッチ (宮沢賢治) for Soprano, Bass Flute, Bass Clarinet & Percussion
☆季節表 II (エドモン·ジャベス) for Soprano, Flute, Clarinet, Guitar & Percussion

【出演】
小坂梓 : ソプラノ
沼畑香織 : フルート/バスフルート
岩瀬龍太 : クラリネット/バスクラリネット
土橋庸人 : ギター
會田瑞樹 : 打楽器

 

作曲家・木下正道の新作初演ばかりの個展。メインプログラムである「季節表 Ⅱ」をはじめとしていずれも季節をえがいた作品であり、「灰、灰たち‥灰…Ⅴ」をのぞいてソプラノソロによって歌詞が歌われる。会場は演奏するスペースがあるのかと心配になるほどの満員。

 

「夏は夜 Ⅳ」はシンプルな構造のなかにひんやりかつ仄かな明るさを感じさせる小品で、見事な清少納言の世界の現代版になっている。ソプラノの小坂が声質が曲想によく合い、また歌詞が明瞭で好印象。

「3つの秋の歌 Ⅳ」は、はじめの2曲が印象がうすいが、唯一「大きな木のそばへ…」と歌う部分はハッとさせる。3曲目は特徴的なモチーフで印象的な冒頭と、静かな余韻を残す終わりが秀逸。

「灰、灰たち‥灰…Ⅴ」。タランテラを思わせるテンポの速い舞曲のリズムがたたみかけられ、引き伸ばされ、圧倒的な力で聴くものを引き摺っていく。暗闇の中を炎に照らされてとりつかれたように踊るなにものかを想像させるギターとパーカッションのデュエット。

「冬のスケッチ」。漂う各パートの音のバランスも良く、冬を思わせるモノクロな音の戯れの中、ソプラノの歌う宮沢賢治の詩がそこに筆をおろす。まぎれもない「日本」の冬の風景がそこにはある。コントラバスの弓でドラムの縁を擦る音が印象的。

「季節表 Ⅱ」はギターソロの短い前奏曲に続く40分を超える大作である。前奏曲のあと、パーカッションから順に奏でられる3つの印象的な下降系のモチーフからはじまり、いくつかの歌をともなうブロックと、それを、つなぐ器楽のパッサージュが連なる構成。前半の「冬のスケッチ」で成功していたような濃密なサウンドはここでも健在で、その万華鏡のような移り変わりが、長い時間をまったく感じさせなかった。

この曲でひとつ気になったのは、この5人のアンサンブルの中でのソプラノソロの位置づけである。前述のような構成から、歌が他の楽器とは違う特権的なポジションを与えられているのは明らかだが、その歌の印象がなんとも薄い。それはたんに小坂の声量なのかもしれないし、彼女の歌うフランス語がいささか立体的でないからかもしれない。しかしそれ以上に曲そのものによるのではないか。器楽のみによる移行部分は、組み合わされる楽器も曲想もその都度変化に富んでいる。それに引き換え歌が参加するブロックに関しては、毎回リズムやテンポが著しく変えられているはずなのに(それは作曲家自身の指揮を見ていればよくわかる)、つねに4人の器楽セクションが同じように絡むため似たようなサウンドが響いている。それは意図されたものなのかもしれないが、歌に与えられた特権的な立場を、作曲家自身が奪ってしまっているという矛盾になってはいないか。 

 

さわやかな小品「春は曙」のアンコールもあり、幸せな気分で会場をあとにした。作品、演奏ともにひじょうに質の高いコンサートであった。

 

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新国立劇場『フィデリオ』(新国立劇場オペラパレス)

ベートーヴェン作曲

『フィデリオ』(全二幕)

 

【指揮】飯守泰次郎 
【演出】カタリーナ・ヴァーグナー

【出演】黒田博/ミヒャエル・クプファー=ラデツキー/ステファン・グールド/リカルダ・メルベート/妻屋秀和/石橋栄実/鈴木准/片寄純也/大沼徹

【合唱】新国立劇場合唱団 
【管弦楽】東京交響楽団

 

2014年の秋に就任して以来4年間にわたってオペラ部門芸術監督として新国立劇場に関わってきた飯守泰次郎の、指揮者としての最後のプロダクション。就任時に指揮をした『パルシファル』(ハリー・クプファー演出)で世界的な水準でのヴァーグナー上演を提供してくれた飯守が最後に選んだのは、スキャンダラスな演出家カタリーナ・ヴァーグナーを迎えての『フィデリオ』である。

 

千秋楽である6月2日を観る。

 

音楽面ではやはりフロレスタン役のグールドとレオノーレ役のメルベートの歌唱が圧倒的。どちらも歌手に理不尽なまでの要求する難役だが、世界のどこの劇場でも満足させるであろう素晴らしい出来。日本人キャストではロッコ役の妻屋が安定していて良い。

飯守の指揮する音楽は、第一幕はなんともアンサンブルもバランスも悪く、フレーズの処理もぞんざいで上滑りした印象を受ける。しかし第二幕になると、人が変わったように集中力のある音楽になった。特に第二幕冒頭の長い前奏からのフロレスタンのアリア、また挿入された『レオノーレ』序曲第三番、フィナーレなどは音楽が引き締まり、これぞベートーヴェンという熱量のある演奏。

 

演出面については予想通りで、物議を醸すひねったもの。

殺される寸前だった囚われのフロレスタンとレオノーレが大臣の到着により一命をとりとめ、悪政を敷いた総督ピツァロは裁かれる……といった本来の勧善懲悪のストーリーはこの舞台にない。主役の二人は哀れにもピツァロに殺されてしまい、ピツァロと別の若い女性がフロレスタンとレオノーレに変装して民衆解放の象徴となる。フロレスタンとレオノーレは地下牢で愛と自由をたたえながらそれが得られるであろう世界へ向かって死んでいき、愚かな民衆はフロレスタンに扮したピツァロの先導により知らぬうちに再び牢獄へと逆戻り。

こうまとめると、いかにも逆張りといったアマノジャクな演出だ。

ともするとこの演出は、権力者の圧政と民衆という構図があり、またそれを克服して自由を得たと思っても、実は正義と見えた新しいシンボルもその実態は同じような権力が別の仮面をかけていただけ……そんな寓話のように見える。政治劇としての『フィデリオ』を現代に読み替えるとそのようなアプローチなるだろう。だが、この演出がそのような政治的なメッセージのものだとしたら、いかにも陳腐なものにしかならない。そのようなことは隠喩として物語に示されなくても、もはや「誰でも感じていること」だからだ。

  

マルツェリーナが想いを寄せるフィデリオとの新婚生活を夢見て手に取り遊ぶ人形。レオノーレが部屋に密かに飾っている夫フロレスタンの肖像画。ピツァロの眺めるレオノーレの肖像画。異例なことに第一幕から地下牢に姿を見せているフロレスタンが壁にえがくレオノーレの絵(影として写るマルツェリーナの姿を見て妻と勘違いしそれを絵に写し取ろうとする)。

それぞれに欲望するものが、その代替物として与えられ(あるいは作られ)、その身代わりを愛でることしか許されていない世界。この世では「欲望する対象そのもの」に手が届くことはなく、それは死ぬことによって得られる「ここではない世界」へおもむくことではじめて得られる理念のようなものなのだ。

(ドラマツゥルグのウェーバーがプログラムノートで"hin zur heiligen Nacht"と引用して『トリスタンとイゾルデ』的な世界との類似をにおわせている)

民衆にとっても、自由や解放の象徴である求められたままの偶像があればよいのであって、その中身が誰なのかは問題ではない。それが英雄の仮面をつけた悪代官であっても気がつきもしない。

つまり、これは「政治」の寓話ではなく「宗教」の寓話なのだ。真実や正義を裏付ける根拠を失った混沌たる現代社会における宗教の救いと、その宗教さえも倒錯した仮面劇にすぎないのだというアイロニー。

 

カタリーナ・ヴァーグナーの演出は、決して奇をてらった気まぐれな読み替えなどではなく、非常にわかりやすいアイディアに満ちている。そこにはきわめて現代的なメッセージもある。(ナチス・ドイツの歴史を背負うドイツ人として、彼らに利用されたヴァーグナー家の子孫としての彼女のメッセージとしては別の意味で興味深いが)

ただ問題は、そこには差し替えることが出来ないベートーヴェンの音楽があるということだ。カタリーナがバイロイトでの演出した曽祖父ヴァーグナーの音楽はそれを受け入れたかもしれないが、『フィデリオ』という理想へ向かいひたすら突進する正義の音楽がそれを受け入れてくれたのだろうか。

  


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