黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

新国立劇場『エレクトラ』(新国立劇場オペラパレス)

 

新国立劇場としては二十二年ぶり、小澤征爾による「東京のオペラの森」公演からでも二十一年ぶりとなる『エレクトラ』の日本での舞台上演。歌もオーケストラも最上級にたかいハードルを要求するオペラだが、それが上演されるということは、とりもなおさず見合った条件がそろったという歌劇場の自信の証しでもある。

それだけに、聴きごたえのあるハイレヴェルな歌手がそろっている。

リヒャルト・シュトラウスの楽劇のなかでも、きわめて重くパワフルな声が要求されるエレクトラ役はアイレ・アッソーニ。さすがにあやうさを感じる瞬間はなんどかあったが、硬軟とりまぜ歌いきる実力はたしかなもの。なかでもオレストと再会したあとの終盤でのあまく陶酔した歌声がすばらしく、これこそエレクトラの人間としての本質的な部分と納得させる。そしてこれはアッソーニのテンペラメントなのかもしれないが、少女のような奔放さ(ひとつ間違えば子供っぽいとも言える)があちこちに顔をこぞかせるのもよい。

またクリテムネストラを歌った藤村実穂子は、あいかわらずドイツ語の処理のうまさが印象的で、このうえなく言葉が立体的に聞こえる。歌の表現としてもきわめてしなやかで、典型的な悪女としてではない、人間的なクリテムネストラを演じていて秀逸。オレストはエギルス・シリンス。ヴォータンを思わせるその渋みがありながらシャープさを失わない声が魅力的だ。

緻密に書かれ難易度もおそろしくたかいリヒャルト・シュトラウスのスコアを、指揮者の大野和士と東京フィルハーモニー交響楽団が満足いくクオリティで演奏したことも重要である。もちろんウィーン国立歌劇場のオーケストラのような艷やかさや精緻さはのぞめないが、細部にこだわりすぎず音楽をすすめていく大野の運びがよい。休憩なく二時間ちかいオペラがあっというまであったのも、そのおかげと言ってよいだろう。

ヨハネス・エラートの演出は、このギリシャ悲劇の呪われた血族のものがたりを、現代のマフィアの復讐の連鎖劇を思わせる世界に重ねあわせているようだ。アイディアとしてはきわめて的を射たものだが、衣装や舞台装置のセンスともあわせて、いささか古めかしさを感じずにはいられない。せっかく幕開きからわたしたちの目の前におかれていた血で錆びた斧も、ドレープのかかった引幕になっている黒紗幕も、かならずしも効果的な役割をはたしたとは言いがたい。

しかし興味深いのはエレクトラとクリテムネストラのふたりだけの場面での鏡の扱いだ。クリテムネストラの目の前には三面鏡のようなおおきな鏡台が置かれるが、この鏡面が三面とも枠だけで抜けている。鏡面をなんども人物がとおりぬけるのもおもしろいし、なんと言っても鏡台にすわる彼女たちが目にするのは、鏡にうつった自分の顔ではなく、わたしたち観客であることが重要だ。言いかえれば、舞台の彼女たちを見るわたしたちの視線と、鏡のなかの自分たちを見る彼女たちの視線がまじわると言うことだ。

これは「わたしの欲望とは誰が他人の欲望である」という有名なテーゼの変奏「わたしがわたし自身を見る視線は他人の視線である」を具現化して興味深い。鏡を見る視線は『エレクトラ』の重要なモティーフのひとつだからである。

また舞台奥や黒紗幕にうつしだされるふたつの天体、つまり二重星エレクトラとクリテムネストラとの関係を示唆しているのも(あまりにベタではあるが)わかりやすい。このふたりの女の立場と関係もまた、鏡のをはさんだ相似関係にある。

とはいえ全体に商業演劇めいたわかりやすさが散見され、それがややチープな舞台に見えなくもないのは残念。幕開きなどは暗転したしずかな会場に心臓の鼓動がどこからともなく聞こえてくるのだが、指揮者の登場と挨拶・拍手によって台無しになるという不徹底なども、中途半端さを感じるひとつの要素にすぎない。再演以降のブラッシュアップに期待したい。