黒井緑朗のひとりがたり

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『ハウス・ジャック・ビルト』(ラース・フォン・トリアー監督)

 

なにかと物議を醸すラース・フォン・トリアー監督の最新作『ハウス・ジャック・ビルト』を観る。

 

カンヌ国際映画祭での上映では少なくない退出者が出た、などという前情報もあり、さぞや凄惨なシーンでうめつくされたシリアルキラーのものがたりなのかと思いのほか、その予想はやはり裏切られた。サイコパスによる尋常ではない殺人の記録が淡々とえがかれているが、そこにはいくえにもトリアーらしい仕掛けがはりめぐらされており、重層的なメタファーによって構成された、ある意味きわめてわかりやすい映画であった。

(以下ネタバレあり)

 

強迫性障害をもったシリアルキラーであるジャックが、12年間におよぶみずからのおびただしい殺人の系譜から、いくつかのケースをものがたるという構成をとる。たまたま車に乗せた口の悪い女。金銭欲に目がくらみ警戒心をとく未亡人。典型的な幸せを演じることを強いられる家族。罵られながらも性的な関係を拒まない「単純」な女。いともかんたんに殺されるそれらの犠牲者の死体をコレクションしていくジャック。人間の欲望を女性というセクシャリティに象徴させ、それにサディスティックなまでの嫌悪を見せるのはトリアーの常套手段だが、この作品でえがかれているのはそれだけにはとどまらない。

そこに見え隠れするのは、自分と価値観の相容れない他者を抹殺し、しかもそれを発展と進歩の名のもとに正当化してきた人間の歴史そのものである。終盤近くなってヒトラーひきいるナチスやムッソリーニ、スターリンらの独裁者たちの映像をはじめ目を覆いたくなるような人間の負の歴史の映像が矢継ぎ早に挿入されることからもあきらかだろう。

人間はその歴史の発展のために、女性や子供をはじめとしたさまざまな生贄を必要としてきた。縛られた「有色人種」たちをフルメタルジャケットという不必要なまでの強力な弾丸で撃ち抜く実験をジャックが試みるとき、そこに日本への原爆投下や南の国での水爆実験などのイメージを重ねるのはたやすい。神のごとく世界をその手で創造できると思った人間という存在そのものへのこのうえない嫌悪と断罪。もしかしたら神さえもその対象であるかもしれない。

(それらは過剰なまでにわかりやすく演出で「解説」されており、さすがにいささかベタすぎるのには笑うしかないのだが)

 

ジャックは建築家になりたいと夢見る技師である。(ちなみに、この建築家=Architectと技師=Engineerの関係は日本語とのズレで混乱をもたらしているように思えたが、どうなのだろう)繰り返される殺人と平行して、ジャックはみずから設計した家をなんども建てかけては壊す。「真の芸術家=創造者」というタルコフスキーにもつうじるテーマがそこに見ることができるが、家を建てることは人間が文明を築くことのメタファーでもある。

神→世界。芸術家→作品。人間→文明。それぞれの「創造」過程において、どのような残酷なSacrifice(犠牲/生贄)があったのか、それがジャックの殺人の記録をとおしてあぶりだされている。

 

エピローグになり、わたしたちは(それまでもほのめかされていた)ダンテの『地獄編』の世界観のなかに突如として投げ込まれる。冒頭からその声だけが聞こえていたヴァージ(ヴェルギリウス)に導かれ、ダンテよろしく地獄へ降りていくジャック。もはやパロディとしか言いようのないベタに作り込まれたその地獄を巡るなか、ジャックが人々の平安に暮らす世界を垣間見るシーンは、マット・ディロンの素晴らしい演技もありこの映画の白眉。

 

この人間への嫌悪(とその裏返しのひねくれた愛情)にあふれた映画の真の主人公は、監督であるラース・フォン・トリアーであると言える。

なかなか自分の家を建てることのできないジャックに、ヴァージは「ひとはそれぞれ自分だけの素材をもっている」のだと助言する。それにしたがいジャックは彼にしか建てることのできない家を完成させるのだが、これは映画監督トリアーそのひとのことにほかならない。

前述の挿入される映像のなかには、トリアー自身の過去の作品(『奇跡の海』や『ドッグヴィル』、『メランコリア』らしき映像だった)の断片が含まれている。あからさまな性描写や目を覆いたくなるような残虐なシーンをためらいもなく撮り続けたトリアー。それはつねに賛否両論を生んできた。

しかしそれらは、ほかでもないトリアーにとっての「素材」なのだ。その「素材」をつかって、トリアーにしか撮ることのできない映画を作ってきた。「素材」という名の生贄のうえに自分のアーティストとしての世界が成立しているという自覚。この映画は殺人鬼ジャックの姿を借りたトリアーの自画像であるとも言えるだろう。

だがそのトリアーの自覚は、やはり自分が嫌悪すべき人間のひとりにすぎないという自覚でもある。だからトリアーはみずからを、暴力者の集う階層などではなく、地獄の最下層の深淵に突き落とさなければならなかったのだ。

 

 

 

 

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