黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

新聞家『フードコート』(TABULAE)

 

村社祐太朗が主宰する新聞家の『フードコート』。

独特の表現を重ねる村社の台本、演出による新作である。今回は二度観劇することを前提として予約を受け付けており、長い公演期間のうちから複数のステージを選んで観ることになる。初見は10月5日の夜に、そして再見は10月20日の昼に観た。

 

会場となるTABULAEはわずか10畳程度のスペース。アクティングエリアとなる一畳ほどの狭い土間が中央にあり、そのまわりを囲むように板の間があり、観客はその板の間に座って観ることになる。

特徴的なのは、そのいくつかのエリアに分かれた板の間に、それぞれひとつづつの小さな植栽が置かれていることである。受付でそれらの植物からひとつを選ぶように促された観客は、自分の選択した植栽の近くに腰を下ろす。聞いたことのないような名前の植物もあり、まずはおおいに困惑させられる。植物の名前と、それが指し示す植物そのもののあいだにあるはずのペアリングの不確実さに、不意にたじろがざるを得なくなるからである。草木に詳しいものであれば、この趣向からまた違った印象を受けることになるだろうが、どうやら来場者のほとんどがどこに座ればよいかわからないらしい。とうぜんのことながら村社自身は、それぞれの名前が指し示す植物がなんであるかを知っている。しかし詳しくない観客にとっては、その名前が指し示すものをイメージすることができない。

「どれのことかわかりますか」

「いえ、ちょっとわかりません」

「先が茶色になった長い葉っぱがあって……」

受付で村社はていねいにその名前をもった植物の特徴を教えてくれるのだが、なかなかその右側のエリアですよなどとは言わない。あくまでこちらにとっては未知の植物の説明を詳しく繰り返すのみである。

 

パフォーマンス自体はおそらく15分程度の長さなのではないかと思われた。唯一の出演者である吉田舞雪が、アクティングエリアにあるおおきな植木鉢に腰を下ろしセリフを口にしはじめる。つながりとしてはいささか明瞭さを欠くテクストを、極力ニュアンスを排してシンプルに「発話」していく新聞家のいつものスタイル。そのテクストから観客の意識のなかにぼんやりと浮かびあがってくる、幾人かの登場人物とシチュエーション。いっけんジャンプカットのような唐突な構成(のように聞こえる)をもったそのテクストは、だからこそ観るもの(聴くもの)によってさまざまな異なるイメージを喚起するだろう。それが作者のが意図したオリジナルのイメージ(そしてそれは明確にあるのだと村社は言う)とおなじものかとうか、もはやそれはあまり意味がない問いだろう。

作者の村社も、また演者の吉田も、あたりまえのことだがそのテクストを知っている。アフタートークで語られたところによると、その一文一文、単語レヴェルでその指し示すイメージとの対応関係を厳密にもったうえで上演にのぞんている。しかし、観客席にいるわたしたちにはその対応関係は明かされていない。もちろんそれは新作の演劇一般に言えることなのではあるが、受付で告げられた「浮遊する植物の名前」と観客席に鎮座する「植物そのもの」との関係とおなじ構図であることに気がつくとき、この公演の面白さが見えてくる。

 

そして三週間という時間を空けての二度目の舞台。導入部でのいくつかの「儀式」をのぞけば、どこがどうというレヴェルで変わっていることはないのだが、テクストを「語る」吉田舞雪のなんとも言えない表情に引き込まれた。初見時には「知らない」テクストが語られるのに耳を傾ける観客も、再見時にはすでに「知っている」テクストが語られるのを体験する。もちろん、そのテクストとそれが指し示すものがたりの対応関係そのものが明示されるわけではない。だが、あきらかに二度のテクストとの出会いがまったく違った経験になったことはたしかだ。吉田の「語り」を「見て」いると、やはり紛れもなくこれがかけがえのない「劇場体験」なのだと思わされた。

『フードコート』だからと言うわけではないが、寝かせたカレーはさすがに美味しかったのである。

 

 

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