黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

芸術祭十月大歌舞伎第一部(歌舞伎座)

 

まずもって、見ごたえのある傑出した新作歌舞伎がうまれたと言ってよい。それも再演に耐えうる骨太な魅力をもった作品がである。もちろん原作となる神田松鯉の講談がよくできているということもあるだろうが、それ以上に作り手のていねいな仕事がいたるところに見られ、その努力がみごとに報われたのが今月の『荒川十太夫』だ。

 

まず歌舞伎化にあたっての台本(竹柴潤一)が秀逸。じつは、ものがたりとしては単純明快。本懐を遂げた赤穂浪士・堀部安兵衛が切腹をするにあたって介錯をした荒川十太夫。彼は堀部の死後、命日になると身分を高く偽って墓参をつづけていたが、屋敷の重役に見咎められてしまう。主君直々の詮議をうけ、ようやくその「嘘」にこめられた彼の誠実さがあきらかにされるというもの。あらすじを読んでいるだけで感動を生むよい話であるが、その単純さは裏を返せばいちど観ただけで満足してしまいかねない。しかしこの台本は、どこを切りとってもセリフ劇としての面白さにあふれており、歌舞伎役者ならではのセリフ術を存分に堪能できる見せ場がある。そこが「再演に耐えうる」というところである。現代の観客への明快さがありながら、重厚さをひとときも失うことがない。おそらくは真山青果や宇野信夫といった、いわゆる「新歌舞伎」といわれる一連の作品群にならべてもそれほど遜色はないだろう。さまざまな役者によって、今後再演がかさねられていくことを願ってやまない。

 

さまざまな役者によって再演をと書いたが、それでもやはり今回の出演者たちの熱演なくしては、この感動的な舞台はありえなかっただろう。

まずは十太夫を演じる尾上松緑。企画の発案者でもある松緑は、けっして器用な役者ではない。セリフがうまいわけでも、口跡がよいわけでもない。それが、セリフで観客を泣かせている。不器用で実直な十太夫のキャラクターが、松緑にあっているということもあるだろう。だがそれ以上に、その発する言葉の意味、重みというものを、松緑自身がしっかりと感じているのがよくわかる演技である。「荒川十太夫、偽りの侍だ」「悪いことはできぬのだ」のしぼりだすようなセリフににじむ切実さ。そこにはひとことたりとも浮ついたセリフはない。辰之助時代からおおくの舞台を眺めてきたが、これほど充実した芝居を見せてくれたことはなかったかもしれない。

まわりの共演者も、このうえなくピタリとはまっている。まずは中村吉之丞の杉田五左衛門。まずは大名家の重役にふさわしいどっしりとした風格があるのがよい。十太夫をはじめ目下の者を咎めるときの、ハラのすわった落ち着きよう。そして言葉の端々ににじませる滋味。とかく便利につかわれがちなこの役者の、ほんとうのよさが舞台に生きたように思われた。なんといっても吉之丞の声を聞いていると、ついこのあいだまでなんども聞いてきた、ある名優の舞台姿が脳裏にうかんでならなかった。もうにどと耳にすることができないと思っていた、あの重厚なセリフの片鱗がここにあった。それほどまでにそっくりだ。彼はほんとうに素晴らしい弟子をこの世に残して去ったのだと思う。今後も吉之丞がよい役に恵まれることを、こころの底から願う。

松平隠岐守は坂東亀蔵。兄の彦三郎とおなじく堂々とした声にめぐまれた亀蔵だが、豪快でよくひびきわたる大音声を特徴とする兄にたいして、こまやかな内面の機微をその声にのせることのできる繊細さがある。それは世話物などでよく生かされていると思うが、こういった大名役でもきわめて充実している。市川猿弥の泉岳寺和尚もセリフのうまさが光る。総じて脇にいたるまでセリフのていねいさがこの舞台のクオリティを押しあげている。

 

演出面もシンプルながら、なかなかに凝っていてよい。十太夫が切腹の日のことを語る場面は講談では生きるだろうが歌舞伎でどうなるのかと思っていたが、花道のすっぽんや迫り舞台をうまくつかって回想シーンをつくりあげている。現代の十太夫の語りと、回想のなかの十太夫のセリフとの、自然なつながりがみごと。古典歌舞伎のいわゆる「物語」といわれるテクニックの、現代的な翻案としてきわめてすぐれている。もちろんそれは、堀部安兵衛(市川猿之助)や大石主税(尾上左近)の(出番は少ないが)名演もあってのことだろう。この手法は、歌舞伎らしさをのこしながらさまざまな作品で応用できそうだ。

ただし演出面でふたつほど気になる点があった。まずは冒頭で過去の切腹の場面を見せるのだが、ここでの「堀部安兵衛どのおしまいなされた」などの武士の声を、なぜスピーカーから流したのか。これほど歌舞伎味ある重厚な作品。あれは揚幕あたりから生の声で聞かせるべきだった。また、作品全体として廻り舞台をつかって場面転換がスピーディなのはよいのだが、プロローグと大詰のエピローグだけは本編と時間的におおきな断絶があるはずだ。道具の転換そのものに廻り舞台をつかうのはいいとしても、この二箇所は「完全暗転」をはさまなければならないだろう。なぜ「明転」を選択したのか理解に苦しむ。またこれは台本の問題だが、十太夫が去ったあとやたらと引っ張る幕切れも、再演時にはもうすこしすっきりとまとめたほうが蛇足がなくてよい。

 

もういちど観たいと思わせる名作、そしてそれにふさわしい名演。かかわったすべてのひとに「大当たり」の大向うを心の底から送りたい。

 

(都合により『紅葉狩』は未見)