黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

九月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

再開して二月目となる歌舞伎座。今月も一演目づつの四部構成である。

ここのところ定着した「秀山祭」の看板がないのは残念ではあるが、吉右衛門一座を中心とした見ごたえのある演目がならぶ。そのなかから第三部を観る。

 

『双蝶々曲輪日記』の「引窓」は、いうまでもなく初代も得意とした播磨屋ゆかりの演目。義太夫狂言でありながら、その論理的な展開、舞台装置をドラマに取り込んだ見事な工夫、きめこまやかにえがかれる登場人物の心理、そして一時間余りというみじかめな上演時間もあり、現代の観客にも抵抗なく受け入れられる屈指の名作である。

吉右衛門が濡髪長五郎にまわり、尾上菊之助が与兵衛を初役で演じる。意外にもこの演目をあまり吉右衛門がとりあげる機会はおおくなく、最後に与兵衛を演じたのはじつは十六年前の二〇〇四年の巡業のようで、今回演じる濡髪はその前年二〇〇三年の国立劇場以来十七年ぶり。(ちなみにこの時の与兵衛は亡き中村富十郎で、切実で感動的なドラマを見せたのが記憶にのこっている)

 

菊之助の与兵衛は姿よし、声よしで颯爽としているが、初日から間もないためかやや段取りめいて見える。

あらたに武士として取り立てられた気負いと喜びと、知らないうちににじみでてしまう商人としての地の切り替わり。セリフでいえば時代と世話の微妙な使いわけでもあり、そこが与兵衛という役の面白さでありむずかしさでもあるが、花道の出からしてうまくいっているようには見えない。「いそいそとしてうちへ」入るのは、新しく身分と役目を得て喜び浮かれているからのはず。そのため母・お幸から長五郎の人相書きを売ってくれと頼まれて「八幡の町人」だから売りましょうという見せ場も、唐突に借りてきた人格が顔をのぞかせ不自然。

二階で隠れている長兵衛に河内への逃げ道を教えてやる場面は、やたらと声高に張りあげているが、二階へ聞かせるように言うことと大声を出すことは違うだろう。あるいはおとなしく縄にかかるか逃げようかと苦悩する長五郎を外から窓越しにうかがう場面、その後ろ姿が気が抜けて見えるのが残念。舞台上にいる四人の心理的な綱引きこそ「引窓」の醍醐味であるが、その見えない綱は緩んでしまっているようだ。

吉右衛門の長五郎は、最初の出は思いのほかサラリとしており「運のよいのと悪いのと」もほとんど思い入れもなし。だが、これが二度目の出からたっぷりとした芝居を見せる。「剃りやんす、落ちやんす」もことさら声を張らずにじっくりと聞かせ、「ヤコレそうのうてはこなた、未来の十次兵衛殿へ立ちますまい」はさすがの説得力というべきか。

雀右衛門の手慣れたお早。はまり役の東蔵のお幸。せっかくのよい座組なので、回を重ねてよいアンサンブルになればと思われた。

 

 

 

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