黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『近江源氏先陣館-盛綱陣屋-』(国立劇場)

 

国立劇場の『盛綱陣屋』の初日を観る。直接教えを受けたということではないらしいが、亡き岳父・吉右衛門の得意とした時代物の大役に尾上菊之助がいどむという、次世代の歌舞伎を考える意味では必見の舞台。期待以上に見ごたえのあるものになっていた。

菊之助は、いうまでもなくこれまで女形に軸を置きながら、どうじに二枚目役者としてやってきた。また、いずれ遠くない未来に継ぐことになるであろう菊五郎の名跡を意識して、この数年は弁天小僧やお嬢吉三だけにとどまらず、宗五郎(『魚屋宗五郎』)や新三(『髪結新三』)といった父の演じた立役へ守備範囲をひろげて成果を出した。それだけにとどまらず、吉右衛門と縁続きになったころからその持ち役にも挑戦しており、それこそ一年前は『時今也桔梗旗揚』の光秀を演じるなど、音羽屋・播磨屋両系統の芸を継承すべく新境地をきりひらいている。今月の盛綱も、期待にたがわぬよい舞台だ。

 

菊之助は父・菊五郎や祖父・梅幸にくらべて面長で長身であり、それが盛綱の拵えによく似合っているのがまずよい。二重舞台奥の襖がひらかれすっとまえに出たその姿がじつに堂々としており、身体をわずかに揺らしたその歩き方が吉右衛門を思わせる。和田兵衛とのやりとりも派手なことはなにもしないが、セリフがきっぱりと義太夫狂言のそれになっている。ことに高音のつかいかたがうまく、これまでの菊之助にはなかった芯の強さが声に感じられるのが役にふさわしい。「ずいぶん御酒を」と郎党どもへ言い聞かせるのもセリフのうらに力強さがあって肚がわかる。母・微妙との場面も表面上はおさえ、かつ明晰な芝居。「肉親と肉親の剣を合わす血潮の滝」と右手を上げて揚げ幕を見たその悲壮なまでのかたちのよさも、吉右衛門そっくりだ。これらの場面にかぎらず、菊之助の盛綱はセリフが明晰である。表情にことさらに内面をだすことがないのに、肚がしっかりしているのでその意味するところもまた明瞭なのである。

見せ場となる首実検がまた見事である。兄・高綱の首が入っている首桶をあけ、それを見た小四郎が「やぁととさまか」と駆け寄り腹を切る。このときさっと首桶に思わず蓋をするが、そのとき「小四郎に父親の生首を見せてしまったと」いう内面を顔を変えることもなくイキひとつで見せるのがうまい。これがあざやかなために、小四郎の視線をさえぎる(つまり首桶に蓋をする)という行為が、もういちど蓋をあけるさいに盛綱自身が首をすぐに直視しないという作為的な不自然さ(それはもちろんあらためて見たときの演劇的効果をたかめるたものもであるにせよ)を緩和し、型としての意味作用をより明確に見せることに一役かっている。あらためて言うまでもなくこの首実検は、視線のもたらすドラマなのだということを見るものに再認識させる。偽首と気がついて「やりおったな」という表情もほんのわずかにもれるのみ。それならなぜ腹を切ったのだと小四郎を二度見て、そして最後に花道のむこうを見てわずかに面体を変え「あぁ」とちいさくうなずき合点する。おそらく現役の盛綱役者のなかでも、これらの動きや表情がもっとも抑制されたやりかたといえるだろう。仁左衛門や白鸚のわかりやすさとはまたちがった、肚ひとつていねいに演じきる菊之助の盛綱。それは手本にしたであろう吉右衛門のそれに近いが、その吉右衛門にくらべてもより器用に整理された印象だ。あまり表情をみせない菊之助の芸風に、このおさえた演技がよくあっているのだろう。

北条時政が去り、いまにも落命するかという小四郎をかこむ悲劇の家族。そのなかで「褒めてやれ」が上滑りして聞こえるのはさすがにあっさりしすぎるように思われる。また、小四郎が「伯父さま」と呼ぶのにたいし、扇子をでみずからの足を「ポン、ポン」と叩いてこたえるところは、おおくの盛綱役者はじっと目をとじてわずかにうつむき扇で叩くのにたいして、菊之助は呼びかけられる前から小四郎を見ており、甥の姿を直視しながらこたえている。これがそれまでの菊之助のつくりあげてきた盛綱像といささかずれている。肉親の情と味方への忠義のあいだで思い悩む盛綱を、意外なほど重厚に演じたこの盛綱であれば、やはり小四郎をみることなくその扇子の音だけでずっしりと見せてほしい。いっそのこと仁左衛門のように家族愛を全面におしだした盛綱にはっきりとシフトするというやりかたもあるだろうが、それが菊之助にむいているようにも思われない。「褒めてやれ」にしても扇子の件にしても、方向性は真反対の現象なのだが肚がうすいということでは共通する。そこまでがしっかりとした肚があっただけに、違和感がのこる。

 

和田兵衛は中村又五郎。赤面の荒武者としての豪快さと、幕切れ近くに見せる知性と情をあわせもったむずかしい役だが、さすがにベテランという安定した芝居。この役が本来は後藤又兵衛であることを暗示させる「この和田兵衛(わざとここだけワタベエと発音する)がヒゲ首」の言い方が絶妙にうまく、ちゃんと又兵衛に聞こえるのが面白い。

盛綱の母・微妙は上村吉弥。丸本物の老女役においてはやはりこのひとと思わせる名演。孫への愛情を見せるセリフにおいても(そして小四郎の死にあたっても)その時代物らしいフォームをくずさないのがなによりよい。物足りないところもあって、「駆け出す孫を引き止めて」で刀に手をかけ二重から片足をおとし平舞台の小四郎を見下ろす見せ場は、やはりかっちりかたちを手強くきめて絵になってほしいところ。この老婆もやはり、本音と建前のあいだで苦悩するものだからである。初日ゆえに三味線とイキがあわなかったのかもしれない。

小四郎の母・篝火は中村梅枝。古典的な雰囲気と現代的な感覚をあわせもつこの稀有な女形には、やはり篝火の古風な拵えが似合う。盛綱妻・早瀬は中村莟玉。しっかりと芝居をしてきるのだが、奥方としてはややこじんまりとしていて若女中めいている。

子役ふたりも大活躍で、とくに小四郎役の尾上丑之助は先月につづいて大当たり。子役の演技スタイルをまもりながら、手負いになってからのそれまでとを、絶妙に声の高さと息のスピード感で変えてみせるといううまさには舌を巻く。それでいて作為的でなく自然にドラマに見るものを引き込んでおくのだからたいしたもの。先月といい今月といい、もしかすると歌舞伎の子役の表現にまたひとつ可能性が生まれるのではないかと思わせる上出来。文字どおり「教えも教え、覚えも覚え」たもの。

北條時政を演じる予定であった片岡亀蔵が休演となり、嵐橘三郎が代役。セリフに老獪かつ手強さがあり立派な時政だが、花道の登場で足取りも軽くズンズカ歩くのはやめてほしい。

 

「陣屋」の上演にさきだって、中村萬太郎による解説がおこなわれた。なつかしい「あの音楽」にのせて、大坂の陣の人物関係が映像で説明される。それにつづいて萬太郎が、大坂の陣の主要人物が鎌倉時代の人名に置きかえられていることを解説する。これは歌舞伎をあまり知らない観客には親切以上の意味があるだろう。佐々木、北条、和田などは現在放送中止のNHKの大河ドラマでも目にする名前であり、名前を借りただけにすぎないことを知らないと混乱するからだ。なにより萬太郎のこのうえなく明晰な口跡が抜群で、それに耳を傾けているだけでここちよい。この解説にいたるまで、この舞台はすべてが気持ちよいまでの明晰さにあふれている。
しかしながらである。これだけ短時間でまとまった予備講座であれば、そのまま事前に収録して、ユーチューブなどで流せばよかったのではないだろうか。『鎌倉殿の13人』や『真田丸』のファン層にもアピールできただろうに。初日だというのに半分にさえとおくおよばない客席の寂しい入りを見て、つくづくそう思った。

 

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