黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

二月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

二月歌舞伎座の第三部は、二十九年ぶりの上演となる『鼠小紋春着雛形』が面白い。現代的な魅力にあふれている尾上菊之助初役の鼠小僧をはじめ、見ごたえある舞台になっている。

 

菊之助の鼠小僧(幸蔵)は、一歩間違えば薄情に見える。百両という金をだまし取られた新助(坂東巳之助)の身の上を聞いて金をやろうと言い出す場面など、どこで義憤にかられたのか、金をやる気になったのか、ほとんどわからない。巡り巡ってその金が新助や芸者お元(坂東新悟)にあらぬ疑いがかけられたと聞いたときも、このひとは事態がわかっているのだろうかと心配になるくらい反応がうすい。ほかにもいくつも例を挙げることができるが、基本的に菊之助はその内面の動きを表層にあえて出すことなく演じている。それは言って幸藏みれば肚で芝居をしているということなのだが、感情をリアルに出しがちな昨今の若手の演技のなかにあって、きわめて独特といえるだろう。

その情に流されない古典的な折り目正しい芝居が、この作品のもつシンプルながら現代的な面白さをかえって明確にした。幸蔵は、金をとおしてしか他人とのコミュニケーションをとることのできない、現代的な病理の罹患者である。新助に金を恵んでやろう(それは他人様から盗ってくるものなのだが)とするのは幸蔵にとって特別なことではない。蜆売り三吉(尾上丑之助)に小遣いを持たせるのも、再会しながら名乗らず松山大夫(中村雀右衛門)に金を渡すのもそうだ。幸蔵にとっての内面の表現は、金を渡すことにほかならない。河竹黙阿弥の書いたこの精神的になにかが欠落した(それは作品の結構上は庚申の夜に生まれた因果ということなのだが)悲劇の人物像が、菊之助のおさえられた芝居によって浮かびあがってきたように思われた。

ただ、この内面が表層に出ないという特徴は、音羽屋のすっきりした芸風からは大事な要素であるとはいえ、菊之助という役者にとってつねにつきまとう弱点だ。端正な型の合間からじわりとその内面がにじみでるまでには、まだまだながい時間が必要なタイプの歌舞伎役者である。

まわりの役々も、ぴったりな役者を得て納得のアンサンブルを見せる。なかでも格別なのは中村歌六の演じる辻番所の番人・惣兵衛。セリフの巧みさ、芝居のうまさはいまさらながら傑出している。幸蔵に「命を盗んでいってくれ」と言い出すその唐突も、幸蔵の姿に生き別れた息子の面影を無意識に感じているという肚が生きていて納得させてしまう。黙阿弥ものの作品によくみられるこの種の強引な展開を、現代人にとっても自然なドラマとして見せてしまうというのは驚異的なことだ。

坂東巳之助の新助は、おどろくほど江戸和事の二枚目がはまっていて好演。身体のこなしもそうだが、セリフにうっすらとどこか糸を引くような湿り気があり、そのくらいかすかな色気が理想的。『髪結新三』の忠七など、これからの菊五郎劇団のアンサンブルのなかで代えがたい役者になっていくと思うと楽しみがふえる。坂東新悟のお元、坂東橘太郎の左内もよいが、なんといっても丑之助がわずか八歳とは思えない充実した芝居を見せるのに驚く。ややセリフに表情がつきすぎるのは気になるが、言葉を聞くものにしっかりと届かせる明瞭さ、その言葉のもつ意味内容に共感させるうまさはなかなかのもの。

幸蔵の養母お熊は嵐橘三郎。場面としても人物像としても、まさに『夏祭浪花鑑』の泥場の義平次を思わせる役だが、ややあっさりしすぎていて物足りない。幸蔵に切られて「人殺し」とさけぶその小人物ぶりが際立つためにも、もっと鼻をつまみたくなるようないやらしさがあってもよいだろうに。

序幕の幕開き前に、河竹黙阿弥の弟子という役で尾上菊次がでて花道で前口上。これが過不足なく明晰。出しゃばりすぎて作品世界を壊すことがないのもよい。ただ、庚申の生まれの云々はたしかに現代の観客には予備知識として必要なのかもしれないが、本編を見ていればおのずとわかることなので、わざわざつけ加えなくてもよかったかもしれない。最近の歌舞伎は、説明的ナレーションともいうべき口上に、いささか安易に頼りすぎる気がする。

 

二十九年ぶりの上演となる本作。七代目菊五郎はいちどしか演じていないが、菊之助の当たり役になりそうな充実した上演であった。再演をくりかえして磨きあげ、次世代の菊五郎劇団のレパートリーとして定着してほしいと願うばかり。

 

 

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