黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『ジョーカー』(トッド・フィリップス監督)

 

映画のはじまりからおわりにいたるまで、救いようのない悲しみに満ちている。ホアキン・フェニックス演じるジョーカーこと道化師アーサーの異様なまでのリアリティある演技に、かたときもスクリーンから眼をはなすことができない。

 

アーサーはまわりからの無理解に苦しみながら生きている。コメディアンとしてまったく評価されないことにくわえ、貧困にあえぐなか行政は福祉を打ち切り相談所さえも閉鎖される。あげくのはてには道化仕事の元締めには「存在そのものが気味悪い」とまでいわれてしまう。誰からも求められていない、誰にも受け入れてもらえないという閉塞した状況が、アーサーを追い詰めその精神をむしばんでいく。

これまで高く評価されたジョーカー役者といえば、ヒース・レジャーの名前があげられるだろう。『ダークナイト』におけるそのジョーカー像は、徹底して無根拠な「悪」、つまり善や正義の対向概念としてではない純粋な「悪」を象徴する存在としてえがかれていた。勧善懲悪なものがたりにおける悪役としての立ち位置を根底から覆し、それにいどむバットマンのアイデンティティをも相対化させるという画期的なものであった。いくら因果関係の網目をたどって遡ってみても、そこにはなんの根拠もないという不気味さ。そこには「悪」の意味などどこにもない。

それとは反対に、本作は徹底して意味に埋めつくされている。たとえば、なぜアーサーが人を殺したのかという理由は明白であり、その手段をどのように入手するにいたったのかも明確に示されている。彼の現在の境遇にいたった過去も、芸人としての評価が得られない理由も、なぜジョーカーがあのような容貌をしているのかも、そもそもなぜ「ジョーカー」と名乗るようになったかということも、すべてが有意味につながっている。そのわかりやすいリアリティこそが見るものの共感(憐れみといってもよいだろう)を呼び起こす。ロバート・デ・ニーロ演じるマレー・フランクリンを前にしてテレビのショーの本番で語りだすアーサーの独白には、他人から認められない経験を持つすべての観客が心を動かされることだろう。そこには「承認欲求」にあえぐ現代人がいやというほど知っている、ある感情があるからである。ヒース・レジャーのジョーカーはわたしたちをたじろがせるが、ホアキン・フェニックスのジョーカーはわたしたちを共感させる。そういう意味においては、このジョーカーはその設定とはうらはらに「おおくの他人からおおいに理解される」ジョーカーなのだ。

(ちなみにマレー・フランクリンにあこがれるアーサーの姿には、若き日のデ・ニーロが演じた『キング・オブ・コメディ』のルパート・パプキンのそれを重ねずにはいられない)

 

しかし、ホアキンの名演や、撮影や音響にいたるまで徹底して作り込まれた演出の見事さへの評価とはうらはらに、この作品はおおきな問題をはらんでいるといわざるを得ない。

アーサーはなかば正気を失った介護を要する母親との貧しいふたり暮らしである。突如として発せられる彼のけたたましい笑い声は、その精神疾患ゆえのものと説明される。また映画がすすむにつれあきらかにされるのは、アーサーが幼少時に受けた両親からの育児放棄や虐待である。しかも実の親子と信じていたはずが、自分は養子なのだと知らされる。なんだろうか、この既視感たっぷりのエピソードは。母親から実の父親だと明かされた人物に会いに行き、彼からそのような事実はないと突き放されるアーサーは、それをきっかけに破滅的な凶行へと走り出す。規範たる父権的なものを喪失することで精神と行動の秩序を崩壊させるという、精神分析家の講義にでも登場しそうな事例のような展開もある。

これでよいのだろうか。貧困や、精神疾患や、幼いころの虐待が「悪」を生む。いまの時代にあって、そのようなストーリーが許されてよいのだろうか。安易だという言葉で済ますことのできない、ある種の「危うさ」をそこに感じずにはいられない。その恐ろしさに作り手が無自覚なのか、それともそのようなわかりやすい前時代的なものがたりを世の中が求めているのか。本作の大ヒットを思うとき、そこに映画のラストシーンを重ねざるを得ない。熱狂的な共感は、善悪の価値観のむこうがわ「これでいいのだ」と叫ぶだろう。しかしあえて問われなければならない。「それでいいのか」と。

 

※以下ネタバレと考えられる結末についての記述を含みます。

 

だが、ラストシーンはそんなことさえすべて吹き飛ばしかねない、あるひとつの解釈の可能性を残しておわる。この作品が影響を受けているとされる「ある作品」もまた、やはりその可能性をにおわせるものであったように。そうだとすれば、映画の評価が根底から覆りかねないものだ。

それは、このものがたりそれ自体が、ジョーカーの作り話であったという解釈である。本作はジョーカーが精神病院のなかでカウンセラーに話をしているシーンで締めくくられるが、そこでジョーカーが語った内容こそ、この悲愴で壮大なジョーカー誕生秘話であったかもしれないのだ。(序盤にやはり登場するカウンセラーの扱いや、銃の装弾数の矛盾など、それを疑わずにはいられないポイントも少なからず用意されている)

ジョーカー自身がみずからの現状に納得の行く原因を求めたゆえの虚構ということも考えられるが、まわりが求めるままに彼が「もの騙たり」した結果なのだとしたら、なんとも皮肉なものである。なんにでも原因があるはずだとかたく信じ、しかもそれを自分ではないものに求めたがる、現代の病理とも言えるその傾向を、ジョーカーはあざ笑っているかもしれないのだ。「おまえたちが求めているのは、こういう社会の矛盾が生んだ哀れな男のものがたりなんだろう」と。

映画だけではなく、すべてのフィクションたるジャンルへの批評的な問いかけをはらんだ、なんとも痛快な傑作なのかもしれない。

 

 

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『ハウス・ジャック・ビルト』(ラース・フォン・トリアー監督)

 

なにかと物議を醸すラース・フォン・トリアー監督の最新作『ハウス・ジャック・ビルト』を観る。

 

カンヌ国際映画祭での上映では少なくない退出者が出た、などという前情報もあり、さぞや凄惨なシーンでうめつくされたシリアルキラーのものがたりなのかと思いのほか、その予想はやはり裏切られた。サイコパスによる尋常ではない殺人の記録が淡々とえがかれているが、そこにはいくえにもトリアーらしい仕掛けがはりめぐらされており、重層的なメタファーによって構成された、ある意味きわめてわかりやすい映画であった。

(以下ネタバレあり)

 

強迫性障害をもったシリアルキラーであるジャックが、12年間におよぶみずからのおびただしい殺人の系譜から、いくつかのケースをものがたるという構成をとる。たまたま車に乗せた口の悪い女。金銭欲に目がくらみ警戒心をとく未亡人。典型的な幸せを演じることを強いられる家族。罵られながらも性的な関係を拒まない「単純」な女。いともかんたんに殺されるそれらの犠牲者の死体をコレクションしていくジャック。人間の欲望を女性というセクシャリティに象徴させ、それにサディスティックなまでの嫌悪を見せるのはトリアーの常套手段だが、この作品でえがかれているのはそれだけにはとどまらない。

そこに見え隠れするのは、自分と価値観の相容れない他者を抹殺し、しかもそれを発展と進歩の名のもとに正当化してきた人間の歴史そのものである。終盤近くなってヒトラーひきいるナチスやムッソリーニ、スターリンらの独裁者たちの映像をはじめ目を覆いたくなるような人間の負の歴史の映像が矢継ぎ早に挿入されることからもあきらかだろう。

人間はその歴史の発展のために、女性や子供をはじめとしたさまざまな生贄を必要としてきた。縛られた「有色人種」たちをフルメタルジャケットという不必要なまでの強力な弾丸で撃ち抜く実験をジャックが試みるとき、そこに日本への原爆投下や南の国での水爆実験などのイメージを重ねるのはたやすい。神のごとく世界をその手で創造できると思った人間という存在そのものへのこのうえない嫌悪と断罪。もしかしたら神さえもその対象であるかもしれない。

(それらは過剰なまでにわかりやすく演出で「解説」されており、さすがにいささかベタすぎるのには笑うしかないのだが)

 

ジャックは建築家になりたいと夢見る技師である。(ちなみに、この建築家=Architectと技師=Engineerの関係は日本語とのズレで混乱をもたらしているように思えたが、どうなのだろう)繰り返される殺人と平行して、ジャックはみずから設計した家をなんども建てかけては壊す。「真の芸術家=創造者」というタルコフスキーにもつうじるテーマがそこに見ることができるが、家を建てることは人間が文明を築くことのメタファーでもある。

神→世界。芸術家→作品。人間→文明。それぞれの「創造」過程において、どのような残酷なSacrifice(犠牲/生贄)があったのか、それがジャックの殺人の記録をとおしてあぶりだされている。

 

エピローグになり、わたしたちは(それまでもほのめかされていた)ダンテの『地獄編』の世界観のなかに突如として投げ込まれる。冒頭からその声だけが聞こえていたヴァージ(ヴェルギリウス)に導かれ、ダンテよろしく地獄へ降りていくジャック。もはやパロディとしか言いようのないベタに作り込まれたその地獄を巡るなか、ジャックが人々の平安に暮らす世界を垣間見るシーンは、マット・ディロンの素晴らしい演技もありこの映画の白眉。

 

この人間への嫌悪(とその裏返しのひねくれた愛情)にあふれた映画の真の主人公は、監督であるラース・フォン・トリアーであると言える。

なかなか自分の家を建てることのできないジャックに、ヴァージは「ひとはそれぞれ自分だけの素材をもっている」のだと助言する。それにしたがいジャックは彼にしか建てることのできない家を完成させるのだが、これは映画監督トリアーそのひとのことにほかならない。

前述の挿入される映像のなかには、トリアー自身の過去の作品(『奇跡の海』や『ドッグヴィル』、『メランコリア』らしき映像だった)の断片が含まれている。あからさまな性描写や目を覆いたくなるような残虐なシーンをためらいもなく撮り続けたトリアー。それはつねに賛否両論を生んできた。

しかしそれらは、ほかでもないトリアーにとっての「素材」なのだ。その「素材」をつかって、トリアーにしか撮ることのできない映画を作ってきた。「素材」という名の生贄のうえに自分のアーティストとしての世界が成立しているという自覚。この映画は殺人鬼ジャックの姿を借りたトリアーの自画像であるとも言えるだろう。

だがそのトリアーの自覚は、やはり自分が嫌悪すべき人間のひとりにすぎないという自覚でもある。だからトリアーはみずからを、暴力者の集う階層などではなく、地獄の最下層の深淵に突き落とさなければならなかったのだ。

 

 

 

 

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ゴダール『イメージの本』(Le livre d'image)

 

八十八歳の巨匠ジャン・リュック・ゴダールの新作を劇場で観られるという期待と、 そのほとんどが過去の映像、音楽、文芸などの作品からのおびただしい引用のコラージュにより作られているらしいということへの不安と、そのいずれもをいだいて『イメージの本』を観た。

 

もちろんそこには見たことのある映画のシーンや、知っている音楽もそれなりにあったが、正直に告白すればそのかなりのものは出典の知れないものであった。当然のことではあるが、観るものの映画についての経験値によってそれらがもたらす情報量はおおきく異なる。(たとえば『アンダルシアの犬』を知るものにとっては、スクリーンに見えているおおきく見開かれた眼球に、それが切り裂かれるという、直後の引用されなかったショットを重ねずには見られないだろう)しかしその引用されたものがなにかを知っているかどうかということは、それほどこの作品を観るにあたって重要な問題ではないように思われた。

終盤ちかくに「断片のみが、本物の痕跡を…」というブレヒトの言葉がゴダール自身のナレーションで語られる。この映画を構成しているのは、文字通り数々の「断片」であり、それらのコラージュがこの84分の映像作品である。しかし、そもそもこの作品に限ることなく、すべての映画はある意味「断片」でしかないもののつぎはぎのはずだ。そしてそれは、わたしたちが目にしているこの世界そのものも、やはり「断片」のつぎはぎにすぎないのとおなじことだ。

街を歩いてるとき、ショウウィンドウや看板は目に入ってきても、その店のなかや商品のすべてを知っているわけではない。行きかうひとびとの顔や着ている服や眉をひそめかねない奇妙なふるまいを眼にしていても、そのひとがどんな人物か、どこに住んでいてなにを考えているのか、なにもわかりはしない。すぐ横にならんで歩いている恋人のことだって、どこまでわたしたちは知っていると云えるのだろう。わたしたちにとっての世界は、そんな「断片」を寄せ集めたものにすぎない。なにかそこに意味あるつながり(それは歴史といってもよいだろう)があるように見えても、それは記憶のなかの「断片」をモンタージュした結果でしかないものなのだ。そういう意味では、わたしたちのこの世界を誠実に記述する(そんなことができないことはとうにわかっていても)ことを突き詰めるとすれば、このようなスタイルになるのかもしれない。

わたしたちに見えている世界には、知り合いばかりがいるわけではない。わずかな友人や家族、知人たちが、見たことも会ったこともない数えきれない顔にまじって存在している。わたしたちの世界はそれでも有意味なものとしてありつづける。『イメージの本』に引用された「断片」がなにものであるか、知っているかどうかがそれほど重要ではないと云ったのはそういう意味である。

 

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(以下、ネタバレも含みます)

『イメージの本』はスクリーンに「リメイク」「ペテルブルグ夜話」「線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて」「法の精神」「中央地帯」と示される標題によって五つにわけられた前半と、それにつづくアラブ世界についての比較的長い後半によって構成されている。

前半のなかでは、列車のイメージが畳みかけるようにさまざまにつらなる第三セクションは、有名なリュミエール兄弟の列車のモチーフから、子供によって転がされるリールにいたるまで、フィルムや映像のイメージがそのまま重なり視覚的に面白い。法と正義そして暴力との関係が語られる第四セクションは全体のなかでも比較的わかりやすく、ゴダールのメッセージもダイレクトである。

カンヌ国際映画祭の記者会見でゴダールはつぎのように語っている。

 

(前略)手がなければ、何もすることはできません。このことが理由で、私の作品は、初めから、五本の指で作られるのです。五本の指が一緒になって働けば、手を形作ります。

 

前半の五つに章立てされた部分は、そのまま五本の指であり、それをもってして後半部分が語られる、ということなのだろう。後半部ではさきにふれたようにアラブ世界についての、ある意味「熱い」思いが語られる。基本的には西洋のアラブ世界にたいしての一方的な接し方を批判し、西洋サイドから言及されるアラブとは、その一面にしか過ぎない(つまり「断片」でしかない)ことが繰り返し示される。その世界での暴力、そして美しい海やおだやかに暮らすひとびとの映像。それはいささか政治的にわかりやすすぎるメッセージにも思えたが。

そして映画もおわりにちかづき、左右のチャンネルからずれながら聞こえていたゴダールの声が、いきなり激しい咳き込みにより中断しはっとさせられる。「何ひとつ望みどおりにならなくても、それでも希望は生き続ける」という言葉。そして、踊っていた男が突如として床に倒れこむ映像(マックス・オフュルスの『快楽』からの引用だとのことだ)が観るものに衝撃をあたえるやいなや、この刺激に満ちた映画はいささか唐突に終わりを告げるのである。そのいかにも映画らしい余韻。批評家の佐々木敦がこの映画を見てつぎのように感じたのも、なるほどと思われた。

 

『イメージの本』は何度目かの、そして今度こそ本当になるのかもしれない、ゴダールの最後の映画である。(佐々木敦、ケトル vol.48)

 

 

 

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魂が救われるとき~『A GHOST STORY』を観て

 

二〇一八年の終わりを、すてきな映画でしめくくる幸せ。デヴィッド・ロウリー監督の『A GHOST STORY』を観た。

 

大事なひとを失った妻と、その妻の眼には見えない夫の霊との映画と云えばジェリー・ザッカー監督の『ゴースト』(1990年)が思い出されるが、この『A GHOST STORY』は悲嘆にくれ苦しみ続けるのが残された妻ではなく死んだ夫のほうであり、一貫してその地縛霊となってしまった夫の視点からものがたりがえがかれるところに大きな特徴がある。

 

古き良き時代を思わせるスタンダードサイズのスクリーンに、ポスターにえがかれたとおりの白いシーツをかぶった夫のゴーストが登場する。このCG全盛の時代にあって、古典的な演劇をも思わせるまさに「そのまま」のゴーストの姿は、ゴーストにとってはきわめてリアルな世界がそこに存在しており、それが生きているわたしたちの世界となんら変わることなく重なり合っていることを見るものに受け入れさせる。

 

夫を失った妻がひとりで帰宅し、失われてしまったものを埋めるがごとく、テーブルの上のパイを食べ続ける4分にわたる長回しのショットは圧倒的だ。この素晴らしく印象的なシーンは彼女の埋めることのできない喪失感の表現であると同時に、生きている者と死んだ者との時間の感覚の違いを示している。妻の感情が表現されるごく限られたこのこのシーンの長さにくらべ、ゴーストの視線の中ではしばしば時間は早送りされ、ショットが切り替わるあいだに何十年もの時間が経過していることも少なくない。そもそも彼らにとっての時間がわれわれのそれと尺度が違う。

記憶の集合である世界は、わたしたちにとっては不可逆的に一定の方向へ流れていくものだが、実体を持たないゴースト(この映画では地縛霊)的なものにとっては、それは一定でもなく、不可逆的でもない。監督自身もインタヴューのなかでタイムトラベルというコトバを使っているが、ゴーストの時間においては過去や未来という概念がない。それゆえむしろ彼らの世界は永劫回帰の円環である。

 

ラストシーンで示される未来永劫繰り返される輪廻からの解脱にも似た救済は、仏教的な世界観を知るわたしたちにとってはある意味馴染みのある、キリスト教的な文化のなかに生きる観客にとってはもしかしたら新鮮なものかもしれない。そしてそれはきわめてさりげなく、過不足なく見せられるのである。

 

 

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同じ顔の男たち〜『寝ても覚めても』を観て

 

 

わたしたちは、目の前の友人を指して「あなたはタレントの誰々に似ている」などという話をすることがある。もちろん本人や周囲の賛同を得られることもあるが、云われた本人はもちろん、周りの誰もそうだと思ってくれないような場合も珍しくない。

ある人物とある人物の顔を見比べて、それを「似ている」あるいは「そっくりである」と思うことは必ずしも他人と共有できるものではない。それはたんに目に見える外面的な要素そのものではなく、そのひとつひとつの要素に結びついた主観的な「感情」にもとづいた思考だからだ。

 

濱口竜介監督の最新作『寝ても覚めても』の公開に先立って発表された、雑誌やインターネット上でのさまざまな批評や記事にはあえて目を通さずに、原作である柴崎友香の小説だけを読んで映画館へ足を運んだ。映画化にあたってもっとも楽しみにしていたのは、麦と亮平の二人の「顔」についてどのように表現されるかという点であった。

つきあっていた麦に突然いなくなられた朝子は、何年も経って麦と同じ顔を持った亮平と出会う。朝子は亮平とつきあうことになるが、ある日俳優になっていた麦をテレビ画面で見て動揺する朝子は麦と再会してしまう。この基本構造は原作も映画も同じだが、原作で重要なポイントは、亮平と麦の顔が似ていることは周りの人々も認めるが、朝子がそっくり同じ顔だと思っているのとは違い、「同じ系統」である程度だと認識されていることである。後に朝子は亮平の写真と麦の顔を見比べて、二人がまったく似ていないと感じるようになるのだが、その意味で朝子の視点が「信頼できない語り手」のヴァリエーションにもなっている。それはつまり「二人の男の顔が瓜二つ」という認識は、朝子のある感情という条件下でしか成立していない幻想であるということだ。しかし濱口竜介監督の映画では東出昌大がひとり二役で麦と亮平をつとめており、つまり二人の男の顔が同じであることを、朝子だけではなくわたしたち観客にもキャスティングの段階で自明のこととして提示されている。

 

映画は原作とは細かい構成や設定がかなり異なっている。二人の顔がどこまでそっくりかという点については、明確に同じ顔の持ち主であるという事実が、朝子にとってのみならず関係者全員にはっきり認識されており、それはまったく同じ顔の麦と亮平が顔を合わせるという原作にはないドラマティックなシーンでも明らかだ。そのファンタジックな設定が、朝子のまさかの行動にある種の強引な説得力をもたらすと同時に、同時に周りの人物たちや観客により大きな衝撃を与えている。

麦と亮平の顔について、もう一点重要なポイントとなるのは、さきにも触れた「写真」である。麦がカメラを嫌がり一枚も写真を残さなかったのに対して、亮平は写真を撮らせている、という原作の設定は映画では破棄された。麦が写っている写真がない、というのは麦の存在にゴースト性をもたらし、リアルな世界の亮平との二項対立を形成し、作品のタイトルである『寝ても覚めても』につながる。映画ではそのリアリティの濃度の差はもっぱら東出昌大の演じ分けに委ねられている。麦の異様な軽さを前にしながら、朝子が亮平と過ごした時間を「長い素敵な夢を見ていた」とつぶやく倒錯感が、その先の展開を導くのに一役買っている。

 

東日本大震災、被災地の生活、東北の海と波の音、語り合う女友達、カメラをまっすぐに見つめる顔。濱口のこれまでの作品を思わせるモチーフが多く登場し、さまざまな連想をさせると同時に、やはり濱口の過去作とは大きく印象が違う。机を囲むシーンでカメラ側の一辺に誰も座っていなかったり、麦が去っていくのを見送る朝子を捉えるカメラが後ずさりしたりと、古典的とも云える手法があちらこちらで見受けられる。まるで観るものにその場にいて時間を共有しているような錯覚を起こさせる、あの濱口のリアリティは今作では希薄である。リアリズムからファンタジーへ。それはヒロイン以外に玄人俳優を起用したことに起因するのか、それとも濱口の新境地なのかは、興味のあるところだ。

 

原作の柴崎友香はこの作品について「目に見えたままを書いた」と語っている。柴崎の文章は一歩間違えば冗長にもなりかねないほど細かく情景や出来事を描写する。そのまなざしは、否応なくそこにあるものを写真や映像にしてしまうカメラのレンズと同じなのだろうか。いや、「目に見えたまま」というコトバのとおり、それは見ているまなざしの主観でしかありえないわけで、わたしたちは誰一人としてありのままを書くことなどできはしない。濱口竜介がわたしたちに観せてくれた映像は、誰のまなざしだったのだろうか。

 


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川の流れのように〜『手をなくした少女』を観て

 

話題になっている『大人のためのグリム童話〜手をなくした少女』を観る。

 

昔から知られているグリム童話『手なし娘』を現代に蘇らせた、セバスチャン・ローデンバックのアニメーション映画だ。監督自身がひとりですべての作画を手がけたというから驚きだ。クリプトキノグラフィーという手法が使われているそうだが、その自由な筆の線でえがかれる背景や人物は、東洋の水墨画を思わせる。何年か前に発表された高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を思い出させるような不思議な画面だ。

そのあいまいな線によって切り出される人物たちの持つイメージの変化(へんげ)していく自由さ。いや、切り出されるということさえ云えないかもしれない。揺れ動く最低限の輪郭線しか持たない絵は、これまたあいまいに「色」をあたえられるのだが、基本的に塗りつぶされることがないために、背景は透き通っている。まるで幽霊のように存在感がないはずの人物が、そのことでかえって際立った存在感を獲得するという恐ろしく奇妙な光景を目の当たりにした。

 

この映画でひじょうに印象的なのは、水、それも流れる水のイメージだ。川に流れる水はもちろんだが、主人公の父親が得た流れ出る黄金、母親の乳房からほとばしる母乳、畑に撒かれる水、また驚くことに木の上から放たれる尿にいたるまで。この作品のさまざまな「流れ」がわたしたちにみせるものはなんだろうか。

仏教的な世界観においては、わたしたちの存在というものは、絶えず流れ行く川のなかでたまさかに生じた「淀み」のようなものだと考える。同じように見える川の流れも、その一瞬一瞬でまったく違う水が流れて行くにすぎない。たしかに実在を感じているはずのわたしたちの身体さえも、存在論的にも確固たる同一を云うことはできないし、物理的にも分子レヴェルで絶え間ない入れ替えが行われていることは周知のことだ。

あやういまでにはかない線の集まりによってえがかれる人物たちは、それでもたしかにスクリーンの上で生きているかのように躍動する。はかないからこそ、何にでもなれる可能性を持ち続ける線たち。映画という時間の川の流れのなかで、観るものの覗き込みようによっていかようにでも姿を変え、なににでもなり得る可能性を示してくれる。

 

映画のラストシーンで、少女も息子も王子も、小さな一つの「しみ」となって自由に世界にはばたいて行く様がえがかれる。それはまるで、アニメーションのなかの人物なんて、流れ行くスクリーン上の時間のなかでの、たまさかの「しみ」のようなものに過ぎないのだと、わたしたちに語りかけているように思えた。

 

 

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