黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

ゴダール『イメージの本』(Le livre d'image)

 

八十八歳の巨匠ジャン・リュック・ゴダールの新作を劇場で観られるという期待と、 そのほとんどが過去の映像、音楽、文芸などの作品からのおびただしい引用のコラージュにより作られているらしいということへの不安と、そのいずれもをいだいて『イメージの本』を観た。

 

もちろんそこには見たことのある映画のシーンや、知っている音楽もそれなりにあったが、正直に告白すればそのかなりのものは出典の知れないものであった。当然のことではあるが、観るものの映画についての経験値によってそれらがもたらす情報量はおおきく異なる。(たとえば『アンダルシアの犬』を知るものにとっては、スクリーンに見えているおおきく見開かれた眼球に、それが切り裂かれるという、直後の引用されなかったショットを重ねずには見られないだろう)しかしその引用されたものがなにかを知っているかどうかということは、それほどこの作品を観るにあたって重要な問題ではないように思われた。

終盤ちかくに「断片のみが、本物の痕跡を…」というブレヒトの言葉がゴダール自身のナレーションで語られる。この映画を構成しているのは、文字通り数々の「断片」であり、それらのコラージュがこの84分の映像作品である。しかし、そもそもこの作品に限ることなく、すべての映画はある意味「断片」でしかないもののつぎはぎのはずだ。そしてそれは、わたしたちが目にしているこの世界そのものも、やはり「断片」のつぎはぎにすぎないのとおなじことだ。

街を歩いてるとき、ショウウィンドウや看板は目に入ってきても、その店のなかや商品のすべてを知っているわけではない。行きかうひとびとの顔や着ている服や眉をひそめかねない奇妙なふるまいを眼にしていても、そのひとがどんな人物か、どこに住んでいてなにを考えているのか、なにもわかりはしない。すぐ横にならんで歩いている恋人のことだって、どこまでわたしたちは知っていると云えるのだろう。わたしたちにとっての世界は、そんな「断片」を寄せ集めたものにすぎない。なにかそこに意味あるつながり(それは歴史といってもよいだろう)があるように見えても、それは記憶のなかの「断片」をモンタージュした結果でしかないものなのだ。そういう意味では、わたしたちのこの世界を誠実に記述する(そんなことができないことはとうにわかっていても)ことを突き詰めるとすれば、このようなスタイルになるのかもしれない。

わたしたちに見えている世界には、知り合いばかりがいるわけではない。わずかな友人や家族、知人たちが、見たことも会ったこともない数えきれない顔にまじって存在している。わたしたちの世界はそれでも有意味なものとしてありつづける。『イメージの本』に引用された「断片」がなにものであるか、知っているかどうかがそれほど重要ではないと云ったのはそういう意味である。

 

f:id:kuroirokuro:20190424194705j:plain

 

(以下、ネタバレも含みます)

『イメージの本』はスクリーンに「リメイク」「ペテルブルグ夜話」「線路の間の花々は旅の迷い風に揺れて」「法の精神」「中央地帯」と示される標題によって五つにわけられた前半と、それにつづくアラブ世界についての比較的長い後半によって構成されている。

前半のなかでは、列車のイメージが畳みかけるようにさまざまにつらなる第三セクションは、有名なリュミエール兄弟の列車のモチーフから、子供によって転がされるリールにいたるまで、フィルムや映像のイメージがそのまま重なり視覚的に面白い。法と正義そして暴力との関係が語られる第四セクションは全体のなかでも比較的わかりやすく、ゴダールのメッセージもダイレクトである。

カンヌ国際映画祭の記者会見でゴダールはつぎのように語っている。

 

(前略)手がなければ、何もすることはできません。このことが理由で、私の作品は、初めから、五本の指で作られるのです。五本の指が一緒になって働けば、手を形作ります。

 

前半の五つに章立てされた部分は、そのまま五本の指であり、それをもってして後半部分が語られる、ということなのだろう。後半部ではさきにふれたようにアラブ世界についての、ある意味「熱い」思いが語られる。基本的には西洋のアラブ世界にたいしての一方的な接し方を批判し、西洋サイドから言及されるアラブとは、その一面にしか過ぎない(つまり「断片」でしかない)ことが繰り返し示される。その世界での暴力、そして美しい海やおだやかに暮らすひとびとの映像。それはいささか政治的にわかりやすすぎるメッセージにも思えたが。

そして映画もおわりにちかづき、左右のチャンネルからずれながら聞こえていたゴダールの声が、いきなり激しい咳き込みにより中断しはっとさせられる。「何ひとつ望みどおりにならなくても、それでも希望は生き続ける」という言葉。そして、踊っていた男が突如として床に倒れこむ映像(マックス・オフュルスの『快楽』からの引用だとのことだ)が観るものに衝撃をあたえるやいなや、この刺激に満ちた映画はいささか唐突に終わりを告げるのである。そのいかにも映画らしい余韻。批評家の佐々木敦がこの映画を見てつぎのように感じたのも、なるほどと思われた。

 

『イメージの本』は何度目かの、そして今度こそ本当になるのかもしれない、ゴダールの最後の映画である。(佐々木敦、ケトル vol.48)

 

 

 

f:id:kuroirokuro:20190424174611j:plain