黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

十一月顔見世歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

中日もとっくに過ぎて、ようやく観ることのできた歌舞伎座。毎年のことながら顔見世とは名ばかりで、菊五郎と吉右衛門それぞれの一座に、猿之助が加わるという座組。

 

『楼門五三桐』は吉右衛門の石川五右衛門。今月は出番が少ないためか「絶景かな、絶景かな」の名ゼリフで絶好調の名調子を聴かせる。右足を欄干にあげてのキマリがいつになく実によい形で、絵になることこのうえない。

前回同様に真柴久吉は菊五郎が付き合い、こちらも年々若返る美声を聞かせる。

わずか十分あまりの短い幕ながら、こんにちの決定版といってよいスキのない舞台。

 

『文売り』は雀右衛門のお京。

 

『法界坊』はこの二十年ちかくのあいだ勘三郎による串田和美の新演出版がほとんどで、ごくたまに吉右衛門が先代ゆずりの芸を見せる程度であった。そこへ猿之助が演出、舞台ともにいろいろと独自な澤瀉屋型の法界坊に初役で挑む。

大七の座敷で甚三にやり込められるくだり、勘三郎が愛嬌でみせるところを猿之助は技術でていねいに笑わせる。鳥居前でのみじかいだんまりや、蕎麦を喉につまらせ落とした小判を拾い集めるさまなども、実に巧みだ。いまだかつて、これほどまでにセリフと身体が完全にコントロールされた法界坊はいなかっただろう。しかしその「巧さ」に舌を巻く一方で、それは「硬さ」にもなる諸刃の剣である。歌舞伎のなかでも指折りの喜劇的要素の強いこの作品にふさわしい自由さが加わればと思うのは贅沢だろうか。
大詰の向島土手の幕切れで法界坊が宙乗りになる澤瀉屋の型は、数多ある宙乗りを見慣れたわたしたちにとっては、本来の効果よりもその抜け殻を見せられるようで、より工夫の余地があるように思われる。
甚三の歌六、源右衛門の團蔵はベテランらしい巧さをみせ、種之助の野分姫は思いの外の大健闘。弘太郎の長九郎は手一杯に演じて笑わせるているが、嫌味な番頭になりきらないのは年齢ゆえか残念。

 

『法界坊』の最後に大喜利として「双面」。

こちらも構成・衣装での澤瀉屋独特の演出が面白いが、それ以上に独特なのは猿之助の法界坊の霊/野分姫の霊の演じようである。この役はおくみという女形の姿を借りながら、「法界坊の霊」と「野分姫の霊」、また「恨む心」と「慕う心」といった相反する要素をみせることが求められる。猿之助は鍛えられた身体で巧みにそれを演じわけるが、それらの二つの面ははっきりと切り替わるだけではなく、あるときはシームレスに、あるときは重なり合いながら示される。そのとき舞台には、法界坊でも野分姫でもなく、恨みでも恋慕でもなく、もはやなにものでもなくなった歌舞伎役者・市川猿之助のグロテスクな身体が圧倒的な存在感をもってあるのみである。

「双面」という外題にふさわしいその二重性。猿之助の独特なアプローチは、いささか時代遅れとも思われたこの古風な舞踊劇の、きわめて現代的な可能性を感じさせるものであった。

 

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