黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

四月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

平成最後の歌舞伎座、夜の部。

 

『実盛物語』は十数年ぶりという仁左衛門の実盛。七十五歳になっての実盛は最年長記録ではないかと自身が語っているが、その颯爽とした明るさは衰えるどころかいっそう増している。きっぱりと派手に身体が動きながら、それでいて役としての性根はぶれることがない。逆に云えば、徹底して気持ち本位で役の内面を満たしながら、けっして型のシャープさを失わない。小万の死を語る「物語」が、これほど目の醒めるような動きの面白さに満ちていながら、どうじに語られる事象への実盛自身の想いをも強く感じさせる両立。太郎吉にたいする地味溢れる接しようにも、舞台にひろがる幕切れの明るさの裏に、彼の母親を手にかけ殺してしまったことへの自責の念があることがよくわかる。

役の気持ちを大事にしながら、それをむき出しにするのではなく、あくまで型のなかに落とし込んで可視化する。現代人にもつうじる人間のドラマを追求する仁左衛門歌舞伎のひとつの完成形を、前月の『盛綱陣屋』につづいて見せられたように思われた。

瀬尾十郎は歌六。ハラを割らない前半はぐっと手強くありながら、どこか品格をたもっているのは、後半への布石か。二度目の出になり、悪態をつきながら小万の死骸に近づくなかに、仮構した悪役としての建前、小万(じつは瀬尾の娘)を足蹴にすることへの苦悩、太郎吉がそれに怒りを覚えて自分に向かってきてくれるかという思惑、それらの入り交じるさまがバランスよく演じられるうまさ。太郎吉に「爺じゃぞよ」と呼びかけるリアルなせつなさ。歌六はこれも初役だそうだが、この役が見たことのないほどよい役になった。

小万を演じる孝太郎。戸板に乗せられて運び込まれてくるのを見ただけで、よい小万だと見るものに思わせるほどのニンのよさ。死んでいたのが切られた腕をとりもどすことによって一時的に息を吹き返す、その変わりようがうまい。

太郎吉は寺島眞秀。前月の『盛綱陣屋』の小三郎役にひきつづき仁左衛門との共演。そのときも行儀のよいきっちりとした舞台を見せたが、今月の太郎吉もセリフよし、芝居よしの名演で、立派に仁左衛門の実盛とわたりあっている。これでまだ六歳だとは。

松之助の九郎助、斎入の小よしの夫婦がしっかりとした芝居で脇をかためて出色。葵御前の米吉も古風な持ち味が鷹揚な役に生かされている。

特筆すべきなのは、これらの役者はもちろんのこと、郎党や漁師、浄瑠璃を語る谷太夫にいたるまで、この『実盛物語』に出るすべての人物のセリフがきわめてはっきりと聞き取れるということだ。時代物の古典歌舞伎などでは、セリフでなにを云っているのかを聞き取ることなどできないと云われることが多い。その認識は観客も、またセリフを発している役者自身もなかば共有しているだろう。しかし、これほどの舞台を見せられると、それは怠慢なのではないかと思ってしまう。明晰に発せられるセリフはすべて聞き取ることができるし、明確にしめされる内容は理解することができる。それだけ、すみずみまでていねいに準備された傑出したひと幕であった。

 

『黒塚』のシテは猿之助。猿之助の緻密な芸は、能から取材されたことさえ忘れるほど細部にわたって作り込まれたこの舞踊劇にふさわしいものだが、今回はいささかそれが薄味。第一景は意図的にぐっとおさえた表現をしているのかもしれないが、なかなかその不気味さは見えてこない。第二景の、猿之助独特の浮き浮きするような怪しさも希薄。そこから正体が知られてからの大音声はあまりに唐突だ。圧倒的に面白かった前回や前々回の上演とくらべて、ものたりなさを感じてしまうのは欲張りだろうか。怪我からの復帰、まだまだ不完全なところは芝居でカヴァーしていけるはず。

全体に芝居のカドがとれてしまっているせいか、照明の変化の不自然さが目立って気になった。

ワキの阿闍梨祐慶は錦之助。格調ある落ち着いた存在感だが、その古典的な佇まいがかえってこの幕になじんでいない。ワキツレは種之助と鷹之資。猿弥のやたらと身体能力に長けた強力。

 

『二人夕霧』は『吉田屋』の後日談的なパロディ。なんとも他愛のない芝居だが、『吉田屋』とおなじセリフやら小道具やらが楽しい。だが、こういった作品が今後どのように受け入れられていくのだろうか。なんらかのタイミングで、台本、演出ともに見直されるべきではあるだろう。

鴈治郎の伊左衛門は紙子姿になってからがぐっとよく、また東蔵のおきさが芝居がしっかりしていて舞台をしめている。さきの夕霧は魁春、後の夕霧は孝太郎。

 

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