黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

團菊祭五月大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

昼の部では市川左團次一年祭追善ということで、市川男女蔵が『毛抜』の粂寺弾正を演じる。上演時間がみじかいわりに面白い見せ場もあり、歌舞伎十八番のなかでは上演されやすい演目。とくに当代團十郎が海老蔵時代からかなり頻繁に取りあげている。男女蔵は二十年くらい前にいちど演じており、父・左團次も演じたこの役にひさしぶりにいどむ。

その男女蔵の弾正は、セリフが古風でていねいなのがよい。花道から出て玄蕃や民部との会話、また万兵衛を詰問していくくだりなど、きっぱりとしていて男女蔵らしい。ただし秀太郎や巻絹を相手にからむ場面になると、明るさを狙いすぎていて軽くなってしまう。毛抜や小柄をならべての有名な見得のかずかずも力感が抜けていて面白くない。

まわりの役が豪華で男女蔵の弾正をささえている。八剣玄蕃の中村又五郎、秦民部の権十郎、小野春風の中村鴈治郎、巻絹の中村時蔵、秀太郎の中村梅枝、そして万兵衛に尾上松緑と、これだけそろいもそろった贅沢な『毛抜』はなかなか観られない。しかもいずれもが文句のつけようのない好演。小野春道で尾上菊五郎が出て健在ぶり(とくに声のつややかさが増した)をしめして場をしめる。

 

『幡随長兵衛』もまた長兵衛役の市川團十郎だけではなく、役者がそろって見ごたえがある。

まずは序幕の「村山座の場」から。劇中劇である『公平法門諍』がきわめて面白い。源頼義の上村吉弥、坂田公平の片岡市蔵、上人の右左次ら、その古風さといいセリフの明晰さといい、邪魔が入らなければそれこそ最後まで見ていたくなる完成度。乱入する中間・市介を演じる左升、舞台番の新十郎、坂田金左衛門の市川九團次と、みなセリフのテンポもよくかつ明晰。彼らのみごとなアンサンブルのおかげで、充実した序幕になった。

いよいよ客席から團十郎の長兵衛が出る。ひとことで言えば、團十郎の長兵衛はまぎれもないヤクザ者集団の頭である。幡随院長兵衛といえば、頼りがいのある冷静沈着さ、分別のよさ、義侠心といった部分がとかく強調されるのが一般的だが、團十郎の長兵衛はそれらとは一線を画している。眼光は鋭く、なにをするか知れない危うさがつきまとっている。荒くれものを纏めあげるアウトローの凄みというものが、序幕から明確に見える。海老蔵時代からつくりあげてきた独特の長兵衛が、ここへきてひとつの完成形になってきたようだ。

この團十郎らしさは、つづく「長兵衛内」においても明確である。どろどろとした熱いものを内にこめたこの長兵衛は、だからこそひとりになったときの述懐で心を打つ。袴裃に着替えての「以前を忍ばるる、武家に育ちし」姿を垣間見せるときにハッとするのも、ベースに生々しい長兵衛があるからこそ引きたつ。記号化されたスーパーマンとしての長兵衛はどこにもなく、ひとりの任侠の世界に生きるもののリアルが舞台に広がっている。「人は一代、名は末代」が切々と響きわたるのは感動的だ。大詰の「湯殿」の場での圧倒的なひろがりもその延長線上にあるものだろう。

誤解をおそれずに言えば、團十郎は昭和の商業演劇臭をまとった「湯殿の長兵衛」とういう演目を、現代の感覚で洗い流すことに成功した。しばしば團十郎は過剰な内面表現がバランスを失うことがあるが、この演目ではうまくはまっている。「長兵衛内」でともなわれる義太夫が、じつにこってりと説得力をもつのもそのせいだ。せっかくだから、今日では中途半端になりがちな「湯殿」の写実的な演出を、前例にとらわれず見直すのもよさそうだ。

尾上菊之助が水野十郎左衛門。團十郎と好対照にきっぱりとした古典的な演じかたに好感が持てる。演じる方向性が真逆なふたりだが、それが舞台で不思議な緊張感を生む。いまこそぜひこのふたりで『仮名手本忠臣蔵』の高師直と塩谷判官を演じてほしい。女房・お時は中村児太郎。團十郎の女房役にふさわしいおおきな役作り。「是非なく立って入にける」という義太夫にあわせて、思い入れひとつで矛盾する内面を見せて秀逸。