黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『わだちを踏むように』(BLOCH)

 

札幌で活動する劇団「演劇家族スイートホーム」は昨年度のTGR新人賞を受賞した団体。第四回公演『わだちを踏むように』(作/演出・高橋正子)の初日を観る。

 

ひとことで言えば、なかなかの傑作である。

そこでえがかれるのは家族のものがたりだが、家族を家族たらしめているものはなんなのか、それをシンプルに観るものに提示する。その誠実なまでの説得力が、この舞台に静かだがきわめて豊かな感動をもたらしている。

 

舞台は、北海道のある民宿の一室。上手には玄関、奥にはトイレや台所につうじている出入口、下手には二階の客室にあがる階段が見える。部屋の中央にはソファとローテーブル。壁にはられたポスターや日付からわかるのは、この日が近くで催される夏祭りの花火大会の当日であること。そこにつどうのは民宿を経営する夫婦と、その娘と息子、そして彼らにつらなる人々である。

リゾートホテルでもなく、温泉旅館でもなく、民宿のロビーという場所がここで選ばれたのは、そこが他人である客と身内である家族とがあいまいにまじわる空間だからだろう。じっさいそこでは宿泊客をまえにして七夕の飾りを用意する主人一家や、ひさびさに帰省した(という意味ではまさに半身は家族で半身は客である)娘、義理の弟らが、隔てをほとんど感じさせることなく席をおなじくしている。

この「場」のもつあいまいな二重性は、そのまま登場人物たちの存在そのものにもあてはまる。彼らはみな、なんらかの事情を隠したり偽ったりしてこの場にいる。「じつは」というその隠された事情があきらかになっていく過程がこのドラマの面白さなのだが、家族といえども、いや家族だからこそ偽らなければならないものがあるという皮肉な真理が、ときにコミカルに、ときにドラマティックに見え隠れする。

 

家族のつながりとは、なにをもって定義できるものなのか。それは血のつながりなのだろうか。法的な書類上のつながりなのだろうか。おおくの小説や映画、演劇がそのことを問いつづけてきた。この『わだちを踏むように』が提示するその答えは「記憶」である。

中盤あたりであきらかになる、民宿の主人・隆夫の母親が自分の息子さえわからないほどの認知症になったという事実。そこで母と子を結びつけているのは血縁ではなく、たがいを認めあう記憶だ。隆夫の義理の弟と息子が、先立った妻/母(つまり隆夫の妹・知恵)の思い出をめぐって口論するシーンでも、その意味するところは明白だろう。再婚相手の萌が言う「知恵のいなくなった場所を埋めるのではなく、自分もその輪のなかに入りたい」というセリフは、家族の概念にひろがりと可能性をもたらす。物理的、法的な関係は重なりあうことはできないが、「記憶」は重なりあうことができるからである。家族になるということは「記憶」を共有することなのかもしれない。

家族が一緒に写真を撮って残すことも「記憶」のひとつだろう。夏祭りの夜に夜空にかがやく花火をともに見上げるのも「記憶」の共有だ。そしてその「記憶」は一方が他方に強いるものでも同化をうながすものでもない。それぞれの「記憶」は重なりあいながら共有できるはずのものだ。

 

「記憶」ということで言えば、隆夫の母親と共有した時間の回想ともいうべきシーンがいくどか挿入される。舞台に不在であるはずの人物が突如としてそこにたちあらわれる、きわめて重要なセクションだと思うのだが、やや映像作品的な処理がされているように思われた。これがドラマや映画ではなく(映画化したら面白い作品になるかもしれない)、演劇ならではの表現であるためには、演出・照明にもうひと工夫あってもよかったのではないか。

俳優陣はいずれもていねいに稽古を重ねられたことがわかる好演。なかでも妊婦・弥生を演じた竹道光希の求心力のある熱演と、横顔や背中にさえなんとも言えない魅力をただよわせる皐役の本庄一登が目をひく。

 

 

 

 


f:id:kuroirokuro:20191115190200j:image