黒井緑朗のひとりがたり

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コロナ禍での会食は何人までに制限すべきか

 

国民には5人以上の会食を控えるように要請しておきながら、みずからは毎日のように夜の会食をつづけている菅総理大臣に批判があつまっている。政府がしめした5人という人数が説得力をもっていないため、批判が殺到するのは当然と言える。

 

西村経済再生相は16日の衆院内閣委員会の閉会中審査で、「一律に5人以上(の会食)は駄目だと申し上げているわけではない」と述べ、首相の会食は問題ないとの認識を示した。その上で、「長時間、大人数(の会食)はリスクが高いので、できるだけ控えていただき、どうしてもされる場合は感染防止策を徹底してほしい」と強調した。

 西村氏は前日の記者会見で「会食のクラスター(感染集団)の8割以上は5人以上だ。長時間、大人数はできるだけ避けていただくようにお願いをしたい」と訴えていた。(2020/12/17 読売新聞)

 

どんなに慎重に対策をとっていようが、その感染リスクは減少することはあっても、けっしてゼロになることはない。極端に言えば、ひとりだけで外食をするのだってリスクはある。マスクをはずした状態で会話をする必要がないので、そのリスクはいちじるしく低いというだけだ。とは言え、リスクがゼロにならないかぎり会食はいっさいするべきではないというのは、原理的には間違っていないがあまりに現実をはなれた暴論である。そもそも、店の換気の程度や座席の間隔も、会食する当事者たちの意識も、個々の事例はまったくことなっている。そのようななかで、一律にその人数を決めることなどできはしない。

しかし、恣意的な解釈が混乱や不毛な争いを生むことを避けるためには、ある程度は基準となるべき人数をしめすということも重要だろう。そこで、コロナ禍での会食においてもっともふさわしい人数制限について、あえて「演劇的」な視点から考えてみようと思う。

はじめに結論を言えば、ふたつの「演劇的」な理由から「会食はふたりまで」にすべきだろう。

 

俳優がひとりしかいない演劇/映画を思い浮かべてほしい。いわゆるモノドラマ、ひとり芝居とよばれるジャンルだ。そこでは、ことなる人物が会話をおこなうシチュエーションは(モノローグによって内なる別人格や架空の相手とのそれを別にすれば)起こりえない。俳優がふたりになればどうだろう。会話がおこるのは、AとBがともに舞台にいる状態の、1パターンのみだ。それでは、俳優がさらにもうひとり増えたらどうなるだろう。AとBがともに舞台にいる状態、AとCがともに舞台にいる状態、BとCがともに舞台にいる状態、そしてAとBとCがそろって舞台にいる状態の、合計4パターンになる。

会話の組み合わせが指数関数的に増えていくこの現象が、「会食はふたりまで」を提案する「演劇的」な理由のひとつめだ。俳優ふたりだけの芝居は、ほかに逃れられないその緊迫感から、密度の高いものになる。しかし、組み合わせが1パターンしかないため、脚本レヴェルでも演出レヴェルでもそのなかでの変化をつけるべく苦心する。それだけ単調になりがちだということだ。演劇にかぎらず、ふたりだけで会話をしていてそれが途切れたときの気まずい空気は、誰でも経験があるだろう。

だが、ここに3番目の人物がくわわることで4パターンの会話が生まれ、ドラマが格段に面白くなることは明白だ。おなじ人物でも、ひとは会話の相手がかわることでみずからの仮面を変容させる。本人の意識のもとであるかどうかにかかわらず、べつの顔を見せるのである。この面白くなるということが感染予防的にはなんとも曲者で、話題も増え展開も変化に富み、会話はおのずともりあがる。時を忘れつい長引いてしまうこともしばしばだろう。結果として、長時間複数の相手からの飛沫を受け入れることになる。

 

もうひとつの理由は、心理的な要因だ。いまのべた俳優の4つの会話パターンのうち、3人がそろって登場している場合に、ある不思議な現象がおこる。

3人が会話をするとき、彼らは均等に同時的に言葉をかわしているわけではない。あえてそれをねらった演劇でないならば、それは不自然な単調さもしくは過剰な喧騒を生むことになるからだ。3人で会話をするとき、だれかが語り役になり、ほかのふたりが聞き役になるだろう。あるいは、ふたりが言葉をかわしているのを、もうひとりが第三者的に傍観することもあるかもしれない。いずれにせよ、3人の人物が会話をするとき、「2+1」の関係がそこに生まれることになる。そして、その「+1」となる存在がやっかいなのだ。

会話をする相手によって、ひとがべつの顔をみせることはすでにのべた。ひとは「+1」の役割をになったとき、ふだんとはちがう過剰な姿をまといはじめる。寡黙な聞き役になるならばよいかもしれないが、しばしばそれは道化役になってしまう。ふたりきりで話しているとおだやかなトーンで話すのに、それ以上の集団のなかで異様にテンションの高い「盛りあげ役」を無意識にかってでる人物を、身近に思い浮かべることはむずかしくない。この「盛りあげ役」とはよくいったもので、3人以上の集団になったとき、「+1」の位置にいる人物はまさしくその「役」を演じはじめ、おおいに飛沫をまきちらす饗宴のはじまりへとわたしたちを導いてくれる。

 

大声をあげて食事をすることがはばかられると言っても、楽しい時間をすごしているうちに声もおおきくなるだろう。自然と盛りあがってもしまうだろう。それはどんなに気をつけていても起こりうる。だからこそ「盛りあげ役」を生みだす構造をはらんでいる3人以上の会食をできるだけ避けるべきではないかというのだ。どんなルールにも絶対的な根拠などない。それならば、こんな「演劇的」な視点からの基準もあってもよいのではないだろうか。

まあ、そもそも話をするときには、面倒でもマスクをつけなおせばよいことなのだが。