黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

『盛綱陣屋』『蝙蝠の安さん』(国立劇場)

 

高麗屋親子による十二月歌舞伎公演。

 

『盛綱陣屋』の佐々木盛綱を白鸚が演じるのは二十八年ぶりとのこと。ほかにも初役で演じる役者が多数のこの陣屋が、なんとも見ごたえある一幕であった。

白鸚ははじめの出から見た目が素晴らしく期待させ、和田兵衛とのやりとりも明瞭・明確でよいが、母・微妙とのやりとりがやや軽すぎるのが疑問。盛綱は、敵方にまわった弟・高綱の迷いのもとを断つべく、人質の高綱の子・小四郎に腹を切らせる役を微妙に頼む。しかしここでの白鸚は、そのような無慈悲な難題を母に申し出るとは思えないほど「やさしい伯父さん」に見えてしまう。これでは母に孫殺しを納得させられないだろう。

しかし、見せ場である首実検の場になると、白鸚独特の面白さが生きる。高綱の首(偽首)を実検する盛綱の、セリフにならないこまかな内面をどのように見せるかは、それぞれの役者のウデの見せ所。白鸚のやりかたは、ハラひとつで重厚に演じる吉右衛門のそれとも、ていねいに心理の変遷をわかりやすく見せる仁左衛門とも違っている。内面をわかりやすく見せるという意味では仁左衛門的だが、その見せ方が「仮名で書いたように」明確で線が太く豪快であり、少ない手数で明確につたえるその経済性はきわめて歌舞伎的な面白さとおおきさに満ちている。

高綱の死を確かめた大将・北條時政が去ってからは、瀕死の小四郎への思いがあふれていつもの「泣きすぎる高麗屋」になるのだが、これが興味深いことに『熊谷陣屋』の熊谷とはちがって違和感がなく感動的である。これは、熊谷が我が子を犠牲にする計画の主体であるのにたいし、高綱と小四郎の親子の命をかけたこのたくらみに、盛綱が計画し実行する主体としてかかわってはいないという違いがあるからだろう。だからこそこの情深い伯父は甥を追うようにみずからも切腹しようとし、それでは小四郎の死が無駄になると和田兵衛に諭され思いとどまるというそのあとの場面にも違和感なくつながる。白鸚には、頻繁に演じる熊谷より、盛綱のほうがはるかに合っているのかもしれない。

三婆のひとつである大役・微妙を初役で演じるのは上村吉弥。はじめの盛綱とのやりとりは白鸚の影響もあってかホームドラマの登場人物のようだが、小四郎に自害をせまる場面ではたっぷりとセリフを聞かせてその説得力はさすが。(「生け捕るも孫、生け捕ららるも孫」あたりはなぜかサラリとしているのだが)欲を言えば、刀を振りあげ孫にせまるその姿にいまひとつ手強さがあれば、と思わせた。

和田兵衛を演じるのは弥十郎。初役とのことだが、手強い豪快さ、そして思いのほかにセリフに義太夫味もあり、なかなか好演。槍を掲げた盛綱の家来に囲まれての退場は、なかなかみごとな絵になっていた。敵方の大将・北條時政は坂東楽善。七十六歳とは思えない、相変わらずの響きわたる大音声とどっしりとした古怪な迫力が無類。早瀬を演じる高麗蔵がていねいで、こんなに良い役だったかと思わせる。御注進の信楽太郎、伊吹藤太に幸四郎と猿弥という贅沢。

最後に忘れてはならないのが、小四郎を演じた松本幸一郎。子役のなかでもきわめてむずかしい役だが、芝居が細部にいたるまでみごとに演じてきる。また、おそらくよい耳を持っているのだろう、音程と間のよいセリフがきわめて心地よい。

 

『蝙蝠の安さん』はタイトルこそ新作めいているが、昭和六年に書かれた作品。初演以来八十八年ぶりの再演となる。どこまでが昔の台本で、どこからが今回のための補綴なのかはさだかではないが、すっきりとした演出のおかげもあり、ただの復活上演にとどまらない面白い舞台になっている。

基本はチャップリンの映画『街の灯』を下敷きにして、その構成やそこに挿入されるエピソードもかなりの部分を取り入れてまとめたもの。しかも、たんなるパロディやオマージュではなく、歌舞伎にしかできない、歌舞伎役者がやるべき作品になっているところがよい。九十年近く前に、これだけのたくみな二次創作をした先人の才能、そしてそれを復活した幸四郎とスタッフ陣の努力は敬意にあたいする。

浮浪者チャーリーにあたるのが「蝙蝠の安さん」である。『与話情浮名横櫛』に登場する小悪党・蝙蝠安とはちがい、貧しいが心優しいこの正直者を演じるのは幸四郎。このとぼけた役がそうさせるのだろうか、サラサラと早口で流れてしまうという新作ものを演じる幸四郎の悪い癖がほとんどなく、わたしたちが思いえがくあのチャーリーを世話物のなかの人物として違和感なく作りあげている。

なかでも際立ってうまいのが大詰だ。原作の『街の灯』におけるラストシーンは、あまりにも美しくそしてあまりにも残酷な、おそらく映画史でも屈指の名場面。目が見えるようになったお花を遠くから見つめて立ち尽くす安さんの姿は、ただただそれだけで美しく悲しい。お花から菊の花を受け取り花道へ走り出す安さん。映画のあのラストシーンを再現するためには、本舞台のお花と七三の安さんのその距離が必要だったのだ。

その幸四郎を食うかという勢いなのが猿弥の新兵衛。とかく雰囲気と持ち味で演じられがちなこういった役を、きちんと技術で演じているのがよい。台本なのかアドリブなのかほとんどわからないやりとりの面白さは、セリフの技術と間のよさにほかならない。歌舞伎界ではじつに貴重な役者である。

お花は坂東慎吾。『盛綱陣屋』では気の毒なくらい脇の役を演じていた友右衛門が大家を好演して本領発揮。

 

 

 

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