黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

三月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

 

『盛綱陣屋』は仁左衛門の盛綱。なんども演じたあたり役である。その芝居のドラマを現代の観客にもわかりやすく、しかしあくまで型のなかに求めるという仁左衛門らしさが生かされた傑出した舞台。

和田兵衛とのやりとりは表面上はぐっとおさえてはいるが、言語明晰ななかにまさに相手のハラを探る緊張感があり、地味なはずのこの場からひとときも目をはなすことができない。和田兵衛が帰り、母・微妙を呼びながら周囲にじっと目を配るそのリアルな様子から、うってかわって孫に自害を勧めてくれという母への理不尽な頼みの派手なうごき。盛綱の内面のありようが、はじめの出からここまで途切れることなく手に取るように見えるのがさすがである。

三度目の出になり首実検になる。弟・高綱の偽首と気がついて「弟め、やりおったな」との笑いは従来よりは控えめ。ハラで芝居をするということもあるだろうが、その場にいる北条時政はじめとした鎌倉方の武将たちにさとられてはならないという仁左衛門一流のリアルさがそこにはある。それではなぜ甥は偽首と知りながら自害したのかと不審に手負いの小四郎を振り向き、さてはこれも計略かと向こうを見込んで気がつくまで。けっして派手ではないが、それでも盛綱の内面を観るものは息を呑んでともに追うことができる。歌舞伎のなかでも屈指の「ハラ芸」を見せる場面だが、きわめてていねいに運ばれる仁左衛門の身体の動きによってすべてが連続し可視化されている。

この仁左衛門の見事に作りこまれた盛綱で一ヶ所だけ違和感があるのは、まさにいま絶命せんとする小四郎がまわりにいる大人たちに呼びかける場面。「伯父さま」と呼ぶ声に盛綱は扇でみずからの膝を「ポン、ポン」と叩いてこたえるが、ぐっと感情を押し殺すもののふらしさを見せるはずのそれが、いまにも駆け寄って甥の手をとるかに見える仁左衛門の「優しい伯父さま」的な芝居とはちぐはぐに見える。

微妙は秀太郎。孫の小四郎にむかって自害をうながすといういうこの現代では理解しにくい理不尽な要求を、目の前の小四郎はもちろんのこと、観客にも道理を通じさせるその説得力はさすが。なによりもそれを口にしている微妙自身が、みずからを納得させられなければとてもいられないという痛切な想いがあるからだろう。時代物の大役らしくきめるところはきめ、情けを見せるところは見せ、前回よりもはるかに役としての深みがあり感動的。雀右衛門の篝火、孝太郎の早瀬とともに、女形三人がきわめて高い水準でそろっていて見事なアンサンブルである。

和田兵衛は左團次。ここのところ故・團十郎、吉右衛門、白鸚といった大看板が和田兵衛を演じて盛綱と渡り合う名演を見せていたが、やはり線の太い力強さという意味では左團次には無類の安定感がある。注進は錦之助と猿弥という豪華版。北条時政は歌六が不気味な古怪さを出して好演。子役は小四郎は中村勘太郎がていねいに演じて泣かせる。小三郎は寺嶋眞秀。

 

『雷船頭』は未見。

 

『白波五人男』は幸四郎と猿之助が日替わりで弁天小僧を演じるという面白い趣向で、この日の弁天は猿之助。南郷力丸を演じるのは幸四郎。

「浜松屋」の場は、スキのない型が確立されている演目において、ことごとくツボをはずすとこうなるのかという典型。細部にこだわるあまりテンポが悪くなりピントがぼやけた弁天。陰気で内にこもった駄右衛門。番頭以下手代たちのテレビの時代劇を見ているようなセリフ。正体をあらわしてのちの幸四郎の南郷に、かろうじて黙阿弥らしきリズムの残滓が残っている。立体的に組み上げられた芝居のリズムがあとかたなくくずれ、いたるところにすきま風が吹いている。

あたらしいやり方が悪いとは思わないが、それが戯曲に沿ったリズムと流れをいままでと違ったかたちで生むものでなければならない。せっかくの日替わりキャストの試みが、たんなる試みで終わってしまっては残念だ。

「稲瀬川」の名乗りの場になって、白鸚の駄右衛門と鶴亀の忠信利平が本格なセリフを聞かせ、なんとか締めくくった。

 

 

 

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