小田尚稔の演劇を前回観たのは、新型コロナウィルスの影響でつぎつぎと舞台公演が中止になっていた3月。8か月を経て、あのころとおなじように感染者が急増しつつあるなかで観ることになった今回の舞台は、タイトルからわかるようにドストエフスキーの『罪と罰』にインスピレーションをうけたもの。「罪」にたして「罰」でなくあえて「愛」を配した新作は、充実した2時間を観るものにあたえる新境地であった。
出演者は10人と、小田作品としては異例におおい。そして会場に足を踏み入れて驚くのは、舞台にならべらた小道具の数もこれまでの作品からすれば圧倒的におおいことだ。生活感のある白いベッド、絨毯、木製のテーブルと椅子、掃除機にストーブ。そしていたるところに写真や湯呑やおびただしい本や写真や空き缶、ハンガーにかけられたニットなどが乱雑に配されている。小田演劇常連である「コート掛け」や「ミラーボール」たちがその存在感をほとんどしめさないほどだ。
開場して15分経つと、ひとりの出演者(のちにわかるが劇団を主催する劇作家ということらしい)が登場し、机にむかってノートパソコンで原稿を書きはじめる。また、会場はいつのまにかさまざまな環境音的な電子音響に満たされている。じつはこの開演前の時間に見せられ聞かされるこれらが、作品全体のベースになっていると言ってもよい。上演のあいだ、作・演出の小田の分身を思わせる人物が何人も入れ代わり立ち代わりあらわれ、その音響もほぼすべてのシーンで流れ続けるからだ。
もともと小田演劇では、しばしば登場人物のつぶやくような静謐なモノローグが挿入されるが、今回はそれらのかなりの部分がこの音響に遮られてうまく聞き取ることができない。この「聞きとれない声」あるいは「届かない言葉」というのが意図されたものであるとすれば、小田演劇においてはまったくあたらしい表現だろう。それはそのまま、自分のちからではどうにもならない社会のなかで悶えながら生きる人間の、見過ごされ無視されてしまう声なのだ。
相手もなく壁に向かって乱暴に行われるキャッチボール。視界を遮るスモークのなかで相手に届かないままくり返されるバトミントンのラリー。そこでくりひろげられるさまざまな「相手に届かない行為」が、行き場のないエネルギーとなって圧倒的な暴力を生む。この暴力というモティーフも、小田演劇ではこれまで見られなかったものだ。
そのディスコミュニケーションゆえの孤独が、貧困とパラレルに何度もしめされる。「孤独になって、はじめて愛がわかる」というセリフがつぶやかれるが、そこにほんとうに愛はあるのか。その手応えさえ確実なものではないというのに、しかしそれでも「納得できるまでもうすこし頑張ってみる」と、その向こう側に痛切なる希望が要請される。
新型コロナウィルスに脅かされながら生きるいま、このようにしてしか作れなかった、いや作りようがなかった舞台を観た思いがした。小田尚稔のあたらしい挑戦に拍手をおくりつつ、次の一歩にも期待がたかまる。