黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

十二月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

師走の歌舞伎座にならんだ演目のうち、唯一の義太夫狂言が第三部の『傾城反魂香』いわゆる「吃又」である。台本・演出の完成度もたかく、おおくの名優が素晴らしい舞台をのこしてきた名作。

猿之助の女房おとくはこれまでにも、松本白鸚や中村鴈治郎を相手に繰り返し演じ、定評のある役。勘九郎の又平は十年振りとのこと。亡父・勘三郎が(やっていそうだが)演じたことがない役だ。

 

勘九郎の又平は、花道を出て振り返ったときの空虚な顔をみただけで、ニンはぴったりと思わせる。勘三郎とはちがう勘九郎のなまの顔がうまく生かされている。

だが、その芝居はうまくいっているとは言いがたい。セリフをまったく発しない前半は、又平の「鈍」な部分を強調するあまり、上半身から気が抜けている。師匠に命じられて花道の向こうを見込むその姿も、たしかにまばたきひとつせず目は見開かれているが、なんとも緊張感にかける。中盤、師匠に見捨てられて「お願い」とセリフがはじまるが、どこか借り物めいていて言葉(とそのセリフまわし)が上滑りする。誰が言っても胸をしめつけられる「女房さえ侮るか」の絶叫も、いささか軽くひびく。

「吃又」は主人公が吃音者であるが、まぎれもなく世界的にも傑出した「台詞劇」だろう。吃音者の言葉はたどたどしい。ほんとうに言いたいことがあるのに、それをうまく言葉にできない「枷」がある。しかしその内側では、いまにも溢れ出ようとするマグマが煮えたぎっており、その言おうとして言えない張り詰めた圧と、いったん吐かれた言葉の尋常ならざる勢いとが、おのずと聞くもののこころを動かす。名人・吉右衛門はそれをたぐいまれなる技術で聞かせるし、けっして口跡のよいとは言えない松緑などは取り憑かれたような内面の芝居で埋める。勘九郎はインタヴューで「あまり卑下せず、ネガティブにとらえないようにやらなければ」と語っているが、やはり又平という役の根底には、生まれつき障害をもった者の想像を絶する卑屈さと深い絶望があり、それを抜きにしてはドラマが成立しない。現代においてはなかなかそういう役作りはむずかしいのかもしれないが、ぜひ再考されたらと思われた。

だが勘九郎の又平には、ほかの誰にもないよさがある。その筆で奇跡を起こしたのち、師匠にあらためて認められ、門出の舞を舞う。おおくの場合「蛇足」に見えてしまうこの終盤が、なんとも面白く見ごたえがあった。ひとつには勘九郎の舞いがうまいということもあるが、ただうまいだけではなく、実直でひかえめな又平という人物の舞いとしてきちんと成立させているのが立派。この場面がこれほど充実していたのは、それこそ亡くなった三津五郎の又平くらいであった。シンプルに本舞台での引っ張りで幕を引かせるのも気持ちがよい。

 

猿之助のおとくは、前回同様にうまいのひとことにつきる。前半は薄味の勘九郎にあわせてかややひかえめな印象だが、夫婦が死を決心した後半からが圧倒的。

又平にこの世の名残に絵を「書いてくださんすか、書いてくださんすか」と繰り返し語りかける情感。この男がここまで生きてこられたのは、この女房が人間としてもまた「絵師」としても認めてくれたからなのだと、あらためて感動させる。有名な「手も二本、指も十本ありながら」でやさしく夫の手を握り、「なぜ吃りに」の語尾を細く長くのばしながらやや半身反るように顔を見て、「生まれさしゃんした」とけっして強くはなく言いはなつ言葉の見事さと、そこに二重にこめられた意味の深さ。

手水鉢に書かれた絵を見て腰を抜かすところは前回もうまかったが、今回は一段とはまっている。柄杓を探しておもわず「抜けた」絵を見つけ、「カラ二」がトンと入って腰を抜かすそのイキのよさが格別。

 

片岡市蔵の将監は、弟子の前に立ちはだかる壁としての強さと、弟子への優しさとを両立させていて本格。中村梅花の北の方も、ときおり世話めくところが気になるほかは、ひかえめながら気配りのきいた芝居。

修理之助を演じた中村鶴松は、やや幼く見えるようにも思えるが、セリフも芝居もきっちりとしていて印象に残る。

はじめの場面に出る「虎」は、はたしてあれでよいのか。これまでもときおりディズニーのアニメから抜け出たような「虎」が飛び出して閉口するが、今月は今月で妙にリアルな顔と毛並み。照明が暗くなって光を浴びたり、スモークとともに消えるといった演出ともテイストが合っていないように思える。

 

 

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