黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

超歌舞伎『今昔饗宴千本桜』(幕張メッセ)

 

平成最後のゴールデンウィークのはじまりに、ニコニコ超会議2019で超歌舞伎を観る。三年前に上演されたものに大幅に手を入れての再演とのことである。松岡亮の脚本、藤間勘十郎の演出。

 

古典歌舞伎『義経千本桜』の世界と、初音ミクのヒット曲「千本桜」から派生した世界とのないまぜ。いかにも歌舞伎らしい無節操なこの組み合わせから生まれた舞台は、結論から云えばたいへん完成度の高い傑作。

神代の時、花盛りの千本桜を初音の前がながめている。そこへ邪悪な青龍があらわれ、初音の前の抵抗もむなしくその千本桜をわがものにしてしまう。千年の時を経て、枯れて花を失ってしまった千本桜の前で、初音の前の子孫である美玖姫がひとりで舞っていると、佐藤忠信があらわれる。あやしむ美玖姫に忠信は、自分こそは千年前に初音の前と千本桜を護っていた白狐の生まれ変わりであると話す。その後ふたたびあらわれた青龍との戦いに美玖姫と忠信は打ち勝ち、ふたたび千本桜は満開の花を取り戻す……というもの。

冒頭とラスト近くにわずかにある大正浪漫的世界はファンには必要なのかもしれないが、本編とのつながりがなくいささか必然性を欠くように思われた。その趣向を生かすのであれば、なんらかの台本上の工夫がもうひとつ必要であったかもしれない。

 

美玖姫は初音の前の娘ということだが、千年の時を経ているため、これは生きている人間ではなく妖、霊の類であろう。それらこの世のものではないものを舞い演じるために、生身の歌舞伎役者がどれだけの工夫をしているか。身体を持たない初音ミクが美玖姫を演じるということは、そのもっとも高いハードルをはなからクリアしているわけで、話題性だけではないきわめてクリティカルなキャスティングである。

また、映像・照明効果を出すために会場はスモークで満たされているが、これが思いもよらない効果をつくっていた。今回の舞台はおおきなブラックボックスであるうえに、そのスモークによって霞がかっている。それが役者の身体から輪郭をかすかに奪うことで、意外にもきわめて歌舞伎らしい姿に見せていた。その霞がどうじに、生身の役者である中村獅童と、ヴァーチャルな初音ミクと共演にともなう違和感を相当緩和していることは云うまでもない。

大詰の千本桜にふたたび花を咲かせるシーンでは、ニコニコ動画上の桜色のコメントの嵐、客席を埋め尽くす桜色のライトの光で彩られ圧巻。

 

佐藤忠信は中村獅童。やや顎のしゃくれたいかにも歌舞伎役者らしい顔をもった獅童は、時代物の役々こそ似合う。この忠信もぶっ返って白狐の正体をあらわにしてからの豪快さ、張りのあるセリフがよい。ことに火炎隈に荒事の拵えになってからは、その出こそやや腰高で安定感に欠けるようにおもわれたものの、ひろい会場に負けない立派な忠信。なかなか歌舞伎座や新橋演舞場では見られない充実した獅童である。

美玖姫は初音ミク。前述のようにリアルにこの世のものではないというアドヴァンテージがあるのに加え、意外と云ったら失礼かもしれないが踊りが上手い。もちろん誰か歌舞伎役者か舞踊家の動きをトレースしているのだろうが、それにしてもその指先や首の角度にいたるまでの再現性は見事である。彼女の体型や髪の長さなどともバランスがとれた踊りで、立派に「芸」を堪能できる。(ニコ生のコメントでも「うまくなった?!」というものがちらほら見られたが、そうやってひとりの役者の成長ぶりを味わうところなども、歌舞伎文化との共通点があって面白い)ただ、惜しいのは彼女の魅力でもあるそのおおきな眼がしばしば逆効果になること。専門の歌舞伎役者のようにもっと眼を伏せていることを覚えれば、ここぞというときにその眼力はきくだろうし、なによりそのほうが身体からよりイメージが醸しだされるだろう。

澤村國矢の青龍の精が大健闘。藍隈をとる大悪人にふさわしい見事なセリフ、気を張った立ち回りで本格である。もうひとつ鷹揚な余裕と格があれば、古典演目でも十分につうじるじつに立派な敵役である。

残念なことが二点。

初音ミクはなかなかセリフまわしも研究しているが、忠信とのわたりゼリフや、青龍との繰り上げなどではさすがにタイミングがあわず間が悪い。セリフをひとつひとつ打ち込んで出せば可能なことのはずなので、そのたたみこむような歌舞伎特有のセリフの応酬が聞きたい。

もう一点は、上手前方の獅童と下手奥の初音ミクがセリフを云い終えてかたちをきめるところだが、やはりうまくいっていない。それぞれがきめられたタイミングでかたちをきめればよいというものではなく、役者どうしがお互いの身体とイキをさぐりながら、その間にかかったテンションを保ちつつ動くことが「きまり」の面白さだが、当然のことながら初音ミクは獅童のイキをさぐって動くことはできない。そして、獅童もまた、呼吸をしていない(しかも自分より後ろに映し出されているはずの)初音ミクを感じることができないはずだ。生身ではない役者を、眼ではなくどう感じるかという、なかなか面白い課題がそこにあるように思われた。

 

それにしても、客席のテンションは尋常ではない。あちらこちらから「萬屋!」「初音屋!」といった声が飛びかい、クライマックスにむかって舞台と客席とがひとつになって盛りあがっていく陶酔感。シンプルなものがたりに、役者の身体を中心とした祭りの空間がそこには生まれていた。(そして初音ミクにいたってはその中心となる身体さえないのだから、よりそのブラックホール的な効果は増すわけだ)おそらくは元禄の頃の歌舞伎の原型はこのようなものだったのだろうと思わせる、なかなか熱い体験であった。

ニコニコ超会議での公演のあとは、この演目で夏に京都の南座でひと月公演を行うようである。ふだんはクラシカルな歌舞伎を観ているようなひとこそ、一見の価値ある舞台であるように思われた。

 

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