黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

十一月吉例顔見世大歌舞伎昼の部(歌舞伎座)

 

十三代目團十郎襲名ひと月目の昼の部。あわせて市川新之助の襲名披露も行われる。この日は都合により『外郎売』から観る。

 

『外郎売』はその新・新之助の襲名披露となる初舞台。二年半も待たされてのようやくの「初舞台」ということで、演じる方も観る方も感慨深い。見どころとなる早口の言いたては、よくやっているがむろん幼さも目立つのはあたりまえ。それよりも身体のつかいかたがやわらかく、かたちがきまったときのあざやかさはなかなかのもの。その爽快感は成田屋の役者としてなによりもだいじなものだろう。九歳という年齢を考えれば、今後がたのしみな才能と言わざるをえない。

父・團十郎も若いころから十一代目團十郎の隔世遺伝と言われていたが、すくなくとも素顔の面立ちを見るかぎりはこの新之助も目元が十一代目團十郎によく似てきた。

工藤は尾上菊五郎で、足は弱くなっていても声はますます立派な貫禄。小林朝比奈役を市川左團次が演じるが、記録的な老齢の朝比奈ながらツボを心得てさすが。大磯の虎に中村魁春、舞鶴に中村雀右衛門と豪華な脇にかこまれてのはなやかなひと幕。

 

『勧進帳』では新・團十郎の弁慶が、松本幸四郎の富樫、市川猿之助の義経という次世代の中心になる役者を相手に演じる。

團十郎の弁慶をひとことでいえば、これまでよりもはるかに安定性が増した。おそらく明治以来、これほどふさわしい素質をもった役者はいないであろうと思わせるそのハマり具合もあわせて、令和時代のスタンダードたる豪快で堂々とした弁慶。安定性がましたというのは、とくにセリフの癖が抜けたこと、きまりきまりのかたちがより明確で力強くなったことなどがあげられる。延年の舞のなかで後見から数珠を受け取ったときに見せる不動明王のごとき見得はこのひと独特なもので、團十郎の眼力が生きている。この延年の舞や幕外の飛び六方はじつに見ごたえがあって引き込まれた。

ただしその安定性とひきかえに、全体に緊迫感が希薄になった。團十郎の弁慶は海老蔵時代から「主君を守ってなんとかしてこの関を抜ける」という張り詰めた使命感かあった。最初に富樫と対面したときの余裕は平成を装った「芝居」だとも解釈できるのだが、山伏問答から勧進帳の読みあげにいたる前半のクライマックスがなんともサスペンスがない。この弁慶は無事に関を通過できる結末を「知っている」かのようである。

幸四郎の富樫は形の美しさにくわえ、セリフの揺るぎないリズム感がよい。その声はともかくとして、松羽目物にふさわしいかっちりとした品格がある。そのなかでリアルな内面をにじませて「人間のドラマ」を見せようとするのも高麗屋らしくてよい。ただ、前述のとおり弁慶との山伏問答がもりあがらないので残念。

猿之助の義経は、花道を出て振り返りかすかに見上げたその姿が絶品。後半の見せ場である「判官御手」での、右手の出し方がほかの義経と微妙にことなり美しい。ただ全体にセリフはやや表面的であり、猿之助らしい含蓄のある深さを期待してしまう。

義経に追従する四天王に、坂東巳之助、市川染五郎、尾上左近らか出ている。片岡市蔵以外のかれら三人はいすれ弁慶を演じる機会がやってくることだろう。いずれもその日を想像させるにたる意欲的な演技をみせてくれた。

市川宗家の襲名ということで、長唄囃子もずらりと大編成。しかし「寄せの合い方」をひとつとっても、最近は音楽でゾクゾク、ワクワクさせる演奏になかなか出会わない。『勧進帳』は世界に誇れる偉大な音楽劇だと思うが、その側面はもっともっと可能性がのこされているように思われてならない。