早稲田小劇場どらま館がプロデュースする、共同制作プロジェクト「どらま館Labo」の公演。作・演出は山本健介。
ガラス張りの「GCC Common Room」の長方形のスペースの対角線をななめに横切るようにアクティングエリアがあり、幅三尺ほどのしろい観客席はそれを両サイドから挟むように設けられている。小道具はあとから持ち込まれる子供用のちいさい椅子がひとつと、いくつものカラーボールだけだ。
出演者のひとりが体調不良で降板し、急遽四人の予定のところを三人での上演になったとのこと。その欠けた部分がどこなのか、どのようにセリフを改変し(あるいはせずに)割り振ったのか興味がつきない。というのも、そもそも出演者たちは固有の名前の役を演じるのではなく、いくつもの役を持ち替え取り替え、またべつの人物のセリフをかわりにシェアして発話するという語りの構造だったからだ。そのあいまいさがまず面白く、またスリリングであった。
はじめに頭のなかで連想したのは、じつは『名探偵コナン』のことだった。「身体は子供で頭脳はおとな」というキャッチコピーのとおり、江戸川コナン(工藤新一)や灰原哀(宮野志保)らが記憶も頭脳もそのままに子供の姿になって活躍する漫画作品だ。この『永遠幼稚園』の登場人物たちも、見た目は二十歳前後の若者でありながら、自分たちは幼稚園児なのだと自己言及する。それでいながら見るもの聞くものをおとなのように明晰に認識するのである。子供はいろいろなものが見えていないわけではない。すべて見えているし聞いてもいながら、その入ってくるものにたいして、明晰な定義を与えられないだけなのだ。そしてそれは、わたしたちおとなのことでもあるだろう。名づけられないもの、意味を与えられないものの洪水にかこまれながら(そしてそれゆえに名づけられない外部はおそろしいものとして存在するのだが)、わたしたちは生きている。そういう意味で、わたしたちはおとなになったいまも幼稚園児のままなのである。つまりこれは現代社会に生きる、わたしたち自身の演劇にほかならない。
幼稚園児とはきわめて傷つきやすい存在であり、どうじにきわめて残酷な存在でもある。そのふたつのことをひとつにまとめて言えば、それが自分自身であれ他人であれ、あまりにもよわく脆いのだということを「まだ知らない」存在なのだということだ。その暴力とも言うべき圧倒的な外部にたいする脆さ、それを本作のいたるところから感じられた。
その暴力とは、性差の問題であり、経済の問題であり、世代間の問題であり、規律の問題であり、戦争の問題であり、コミュニケーションの問題であり、災害の問題であり、なんといっても不可逆な時間の問題(一方向をむいて座らされたまま進むスクールバスはまさにこの強制力を思わせた)である。全篇にわたって多岐にわたるモティーフがちりばめられているが、一時間強という上演時間にたいしていささかそれは過剰とも感じられた。その過剰さがまた魅力のひとつとも言えるのだが。
出演した俳優は貞方未来、世羅田大次郎、山下萌の三人。いずれも目をひく存在感とピュアさが素敵な好演。なかでも山下の透明さと声のちからは印象にのこった。

