黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

ストスパ4th『エゴイズムでつくる本当の弟』(小劇場B1)

演劇ユニット・ストスパの第4回公演『エゴイズムでつくる本当の弟』を観る。作・演出は白鳥雄介。

 

ものがたりは白鳥自身の家族をモデルとした実話ベースとのこと、はなからそれを作者自身曝け出してみせるという前提。これが徹底している。

問題をかかえる家族のかかわりあいをえがくとなると重い話を想像する。それがあくまでコメディという姿に擬態している。悲劇的な実存的記憶は、第三者的観点からは喜劇のごとくうつるといえばそうなのだが、もちろんこれはけっしてコメディなどではなく、その擬態がつくりだす二重構造こそが本作のおおきなテーマとなっている。それは文学理論でくりかえし論じられてきた「私小説」的な虚構の問題ともつながるだろう。

この二重構造は、いっけん奇妙なしかけにもあらわれている。パンフレットをちらりと見たおりに、青嶋ユウスケ役がふたり記載されていることに気がつく。ダブルキャストでふたりが記載されているのではなく「青嶋ユウスケ」という役が二役存在しているのだ。作中では本音と建前をかわるがわるふたりのユウスケが演じ、またたがいに内面の会話をする。これがなかなか効果的(ただしそれに観客が気がつくはるか前にセリフでネタバラシをしてしまうのは玉に瑕なのだが)である。そこに作者自身白鳥雄介もまったくおなじ衣装を着て前説を行うことで、二重構造の二重がけという凝ったつくりになっている。青嶋ユウスケは「騙る」ために青嶋ユウスケにつくりだされた存在だが、その青嶋ユウスケもこの作品を「語る」ために作者・白鳥雄介につくりだされた存在というわけだ。そしてその理由であるエゴイズムを隠そうともせず観客に提示して作品は終わり、観るものをたじろがせる。もちろん、これがまったく実話とは関係ない話だという可能性もおなじだけ残しながら。


なにをもって家族を定義するかという問題は、今日的な観点からは「血」やアイデンティティ、移民といったおおきな問題へもつながっている。そしてそれは『スターウォーズ』制作陣がエピソード7からエピソード9までのシリーズで挑もうとして無惨にも大失敗したテーマでもある。

べつのところで書いたことがあるが、映画や演劇というジャンルはこの家族の問題とメタな「ジャンル」として親和性がたかい。この『エゴイズムでつくる本当の弟』でも血のつながらない家族関係はたくさん出てくるが、そもそもそれが演劇である以上、血のつながる役を演じる人物はそもそも「似ていない」のである。それは役者当人どうしとしては赤の他人なのだからとうぜんのことだ。しかしそれでもわたしたちは人物Aと人物Bが遺伝子のつながりのある親子だと作者にしめされたら、ひとまず無条件にそれを信頼して(信頼できない語り手の問題は、この信頼が前提だ)舞台を観るだろう。それこそ演劇的空間における魔法である。ならばその魔法ひとつで、ひとは家族になれる可能性をもっているのたが、今作はそれをややひねくれたかたちで見せてくれたように思う。


演じた俳優はどれも粒ぞろいの名演。すべては書ききれないが、作者の分身である青嶋ユウスケ役の丸山港都と株元英彰はいずれも集中力のある名演。母・セツコ役の森下ひさえはコミカルとシリアスを演じわける技術がひかる。出番のもっともすくない青嶋タマコの飛世早哉香が印象的なのは、時系列的に最後に家族になるタマコが、じつはもっとも(すくなくとも表層的には)なんの問題もかかえていない人物であり、その存在がわたしたち観客をふくむ「外の世界」とのリアリティの橋渡しになっているからだろう。そしてなんといっても弟・林ミツオ役の秦健豪の不気味な存在感、メタな層でのリアルな芝居のうまさが抜群。

映画でも面白く成立しそうな脚本だが、俳優陣のたくみな演技による濃密な時間は、小劇場ならではのあっというまの悦楽であった。