黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

オリンピック開会式が問う多様性とは

 
多様性とはなにかということを見るものに考えさせるという意味では、今回の東京オリンピックの開会式もすくなくない意味があったと言ってよいだろう。だがそれは、この開会式が多様性とそのポジティブな可能性について表現できていたかというと、それはまたべつの問題だ。
 
もちろん、見るべきものはすくなくなかった。一部からは「暗い」と不評もあったという森山未來のパフォーマンスも、鎮魂それもさまざまなものへの鎮魂を感じさせるものできわめてよい。失われていまだ漂っているかもしれないものへの慰霊は、今回のオリンピックにはふさわしいだろう。「祝う」という言葉を「記念する」と変更した天皇の開会宣言ともつうじるものがある。
また、あまたのドローンによる空中に浮かぶ地球儀も、技術力や独創性をしめしただけでなく、シンプルな今回の開会式のテイストともマッチしていて見応えがあった。入場行進を終えた選手たちがフィールドにつどったその中心のスペースがぽっかりと空いていたのも、「中心のない国」である日本について語ったロラン・バルトの『表徴の帝国』を思わせニヤリとさせられた。
 
聖火リレーのラストランナーを大坂なおみがつとめたことには、いくつもの賛否両論の意見が飛びかった。黒人との混血であり日本国籍をもつ日本代表の選手。あからさまなそのメッセージに、いささか安易ではないか、大坂は都合のよい存在として利用されているのではないか、という批判もあった。
だが、そもそも式典の演出とは、ほかのおおくのジャンルとおなじように、様式のなかで記号化されたものたちの意味作用のつらなりにほかならない。大坂なおみの起用は、多様性をメッセージとしてうちだすのであれば、考えられる選択肢のなかでも納得できるものだろう。さまざまな要素のごった煮になりがちな開会式のようなイベントでは、わかりやすすぎるくらいのトピックスが必要だということは理解できる。
では、なぜこれほどまでにラストランナーの人選に違和感をもつひとがいたのだろうか。それは、ラストランナーが大坂なおみである必然性を、それにいたるまでの開会式全体の流れのなかでつくることができていなかったからにほかならない。
 
それは、聖火の入場にさきだって行われた市川海老蔵と上原ひろみのコラボレーションに象徴されていた。上原の弾く熱いジャズのソロにあわせて、海老蔵が歌舞伎の『暫』の一部を演じるというこのシーンは、たしかに異色の組み合わせだ。これにも「異質だ」という批判がおおくみられた。だが、異質なのは考えるまでもなく当たり前のことで、多様性というメッセージを打ちだすために、あえて異質なふたつのジャンルが組み合わされたのであって、そこを批判してもはじまらない。ちがうものはちがうままでいっこうにかまわない。問題は、ちがうものが共存しようとするときに必要な演出がいささかも施されていないということだ。(これは前日になって急遽辞任した演出担当者の問題とはまったく関係のないレヴェルの話だろう)
たとえば映画などの映像系フィクションや演劇において、親子役の俳優が親子というにはまったく似ていないということはほとんどだ。しかし、見ているわたしたちはそれに違和感を覚えることはほとんどない。それは、映画や演劇というフィクションを成立させているある機能がはたらいているからにほかならない。その機能のおかげで、わたしたちがまったく似ても似つかないふたりの俳優が親子であることを違和感なく受け入れるのである。(その機能についてはまた論じる機会があれば掘り下げてみたい)
歌舞伎がジャズによりそう必要もない。ジャズが歌舞伎に合わせる必要もない。したがって歌舞伎を出すのであれば三味線や鳴物でよかったのではないかとも思わない。ここには、ある種のフィクションとも言える異種格闘技を成立させるための機能が不在なのだ。そしてそれが問題なのは、異質なものが共存するための環境がじつは日本には整っていないとうおそろしくはずかしいメッセージを、165億円もかけて世界に発信してしまったことなのだ。
 
人口減少をはじめた日本は、否応なく人種や価値観が多様化していく社会をつくっていかなければならないだろう。しかしそれは、積極的な混血や価値観の放棄をかならずしも意味しない。大坂なおみのラストランナーにたいして違和感を感じた人々は、演出の不在によってまちがったメッセージを受け取ってしまっているのかもしれれない。まじりあってもいい。変化してもいい。どうじに、変化しないでそのまま共存してもいい。ことなるものが共存することをなんの違和感もなく受け入れるための、あのフィクションにおける機能をはたらかせること。それがこれからの日本には不可欠なはずだ。
今回の東京オリンピック開会式全体をとおしてその機能がはたらく演出がなされていたならば、そのときはじめて大坂なおみの存在は、おおくのひとにポジティブなメッセージをあたえただろうと思うのである。