黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

「これは演劇ではない」~新聞家、キュイ、ヌトミック(こまばアゴラ劇場)

 

こまばアゴラ劇場にて「これは演劇ではない」と題したフェスティバルの二日目を観る。

 

一本目は新聞家『遺影』村社祐太朗・作演出。

結婚式の披露宴に出席している新婦妹とその夫それぞれが十分あまりの独白をするというシンプルな構成。二人の独白の冒頭三分程度が共通のテクストで、それから独自のセリフになる。目に見えている料理や食器、披露宴にはつきものの映像が映し出されるスクリーン、またそこから連想することなどが語られ、内容としてはわかりやすく、その披露宴の様子を見るものが(聞くものが)頭に浮かべるのはたやすい。花井瑠奈の分節ごとに間を置く発話と、横田僚平のときおり口ごもるようなそれとの違いが、それぞれのこの披露宴での微妙な立場の違いを想像させて面白い。「庇いたいのは、よく知られた配置との違い」という共通するセリフが印象的。

そのセリフを面白くしているのは、事前に観客に配布された披露宴の席次表だ。スクリーンを背に中央に座るのが新郎新婦であることは明白だとしても、唯一「新婦祖母」と注釈のある藤城篤子以外は氏名の記載のみ。舞台でセリフを語る新婦妹とその夫が誰でどこに座っているかは、よく見れば特定はできるのだが、なぜこのような席次表が必要だったのか(この席次表も合わせて構成されると明記されている)、必ずしも登場人物の名前や位置がわかったからといって、イメージが限定されるどころかより複層的に感じられるのが不思議だ。なんといっても「よく知られた配置」とは違うらしいそこから、舞台では語られないものがたりが生まれ出す。

もうひとつ忘れられないのは、二人の演者のあいだで交わされる唯一のコミュニケーションであるハンドクリームのくだり。状況説明がなくても二人が夫婦であることを感じさせ、また季節が冬であることを明示する。そして、たがいに差し出すそのタイミングは微妙に異なっていることは意図的なものだとすれば絶妙。

プロンプターについて、聞いたことのない試みがあったことがアフタートークで明かされて笑う。

 

二本目はキュイ『プライベート』。綾門優季・作、橋本清・演出。

それぞれ手にしたスマートフォンの画面の明かりに顔を照らされた演者が、会場時よりアクティングエリアのそこかしこに座っている。そして客席もまた、開演時間がせまるにつれて、まったく同じ光景で埋まっていく。

作品内では、「これは演劇ではない」フェスティバルについて、「プライベート」ということについての自己言及的な言説を含め、『プライベート』の稽古風景やアフタートークなどのかたちを借りながら、またその時間や空間を虚実ねじりながら語られる。もちろんそこには一貫したものがたりの流れはなく、よくある手法と云えばそれまでなのだが、だんだんとその不思議な舞台に引き込まれて見ているこちらもリラックスしてくる。

電車内でそれぞれがスマートフォンをのぞき込みながら、メールをし、ラインをし、音楽を聴き、動画を見、ツイッターやブログを書く。時間と空間を共通しながらてんでバラバラという、よく目にする都市の風景。それを「可視化」して舞台にのせたら、このような感じになるのではないかと感じた。スマートフォンに向き合うその時間こそが、現代人にとっての究極の「プライベート」なのだから。ギターの演奏に混じってしばしば聞こえる、ひとの話し声や電車のアナウンスなどの環境音が、そう思わせたのかもしれない。

 

最後はヌトミック『ネバーマインド』。構成・演出・音楽は額田大志。

三幕にわかれており、第一幕は縄跳びやドリブルなどのエクササイズ、第二幕はゲストを迎えてのクイズトークショー、第三幕は楽器演奏と趣向は違えど、いずれも失敗したらやり直しというひとつのアルゴリズムによって統一されている。反復とそこからの逸脱というある意味古典的な図式のヴァリエーションである。素直に楽しく笑える時間を過ごした。

第二幕はコトバによる進行の人為的な操作が可能だし、第三幕は完全に逸脱が演出で決められているが、第一幕では身体的な限界という、どうにもならない不確定な要素によってそれがなされている。結果的にその第一幕がもっとも面白いのは当然と云うべきか。

ドリフターズは偉大であるということをあらためて思わされた作品であった。

 

 

 

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