歌舞伎座の第二部は、ひさしぶりの片岡仁左衛門・坂東玉三郎の共演が話題の二演目。
『於染久松色読取』は二〇一八年三月におなじ玉三郎のお六、仁左衛門の喜兵衛で上演された。「莨屋」「油屋」の二場の前に、今月は「妙見」の場がつけくわえられた。全体に芝居のテンポが低調なのが気になり、せっかく個々にうまくいっているところも印象がうすいのが残念。
お六を演じる玉三郎はここ数年セリフややが不明瞭であったが、今月は言語明晰かつ意味明瞭なのがよい。もちろんその明晰さはともすれば空虚な明るさと紙一重だが、そのなかにあって「どうにかして百両のこの金を」でしっとりと聞かせるうまさ、ゆすりにやってきた油屋で「死んだのさ」と声高に言い切ってからの自在な言い立ての気持ちの良さはさすが。ただ、ゆすりだと本心をあかすそのタイミングがうまくいっているようには思えず、唐突で面白さにかける。
喜兵衛の仁左衛門は姿、声、セリフとこのうえないはまり役。湯から帰ってきた最初の花道の出からして、色気のある凄みといい、通底するどっしりとした落ち着きといい、前回以上に立派である。ことに剃刀を口にくわえ死んでいる(死んではいないのだが)久太の帯をぐっとひいてきまった見得のあざやかさは格別。
千次郎演じる番頭善六はその喜劇味が小気味よく、寺嶋眞秀の堂々たる長太も立派。それでいて、主役のふたりもふくめてやはり全体に白々しいすきま風が舞台に吹いている。前回このかたちで上演されたときにも感じたが、お染の早変わりを見せないで上演するのであれば、なにかそれに代わる芝居の熱量と構成の工夫がなければもはや成立しないのではないか。
休憩をはさんで『神田祭』。そういえば、三年前に玉三郎・仁左衛門が上記のお六・喜兵衛を演じたときも、そのすぐあとにふたりの『神田祭』がつづいていた。
あかるい雰囲気のなかで名コンビのはなやかな踊りを理屈なく楽しめる一幕に、前幕までのモヤモヤとしていたものが晴れる。ときおり色気ある仕草にドキリとさせられるが、この水も滴る美しさを見せるふたりが、いずれも七十代だというおそろしさ。