黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

芸術祭十月大歌舞伎夜の部(歌舞伎座)

 

歌舞伎座夜の部はまず『三人吉三巴白波』が通し上演。菊五郎劇団の若手を中心とした配役で、主役のひとりであるお嬢吉三は尾上松也と中村梅枝のダブルキャスト。二日目のこの日は梅枝が演じる。

有名な「大川端庚申塚の場」は毎年のように上演されるが、このきわめて緻密に作られた河竹黙阿弥の傑作は、やはり『三人吉三巴白波』として通し上演されてこそ、その面白さがあるように思われる。七五調の美しいセリフに彩られた音楽的な魅力や、倒錯的な見た目の美しさだけではない。荒廃した江戸の街を舞台にして、運命に翻弄される若者たちの悲哀をえがいた、現代にもつうじるドラマがあるからである。初役となるふたりのお嬢吉三以外はほぼおなじような配役で十年前にやはり通し上演しているが、それからどのように熟成したかが見もの。

 

 「大川端」での梅枝のお嬢吉三は、まず声のつかい方がうまい。もともと美声の持ち主ということもあるが、女から男に戻って本性を見せるときに声が男になりすぎないのがよい。お嬢吉三は『白浪五人男』の弁天小僧とはちがって、完全に立役になりきらずどこか女形の要素を残しているところが特徴である。梅枝は冷たく澄んだ中性的な声をつかうことで、お嬢吉三のもつなんともいえない現代的なあやうさを出すことに成功している。愛之助のお坊吉三は「お坊」とあだ名されるおおらかさには欠けるものの、持ち前の二枚目ぶりを生かしスッキリとして好感がもてる。このふたりに共通なのは、やたらとリアルに流れてしまうことの少なくないこの七五調を、たっぷりと古風なテンポ感のなかで悠々と言えていること。そのため、下座からの三味線の音が止み「そんならここへ金を賭け」となって間を詰めていく盛りあがりが生きている。ただし、梅枝のセリフでひとつ気になるところがあった。「ほんに今夜は」と張っておいて「縁起がいいわえ」と世話にくだけるのは、やりたくなる気持ちもわからなくはないが、それでは聞く方はカタルシスが得られない。

松緑の和尚吉三は、ほかのふたりにくらべるとややセリフが上滑りしている。「お坊も五十、お嬢も五十、あいだにはいった俺にくんねぇ」など言い回しでいくらでも面白くできるはずだが、残念ながらうまくいっていない。「兄貴分になってくれ」と言われるにはもう少したっぷりとした余裕がほしいところ。

「割下水」になる。松太郎演じる権次はセリフがあやしいのは仕方ないとしても、そのリズムがまったく黙阿弥のそれではなく、ひとり浮いている。

土左衛門伝吉を演じるのは中村歌六。前回よりもはるかに重さと深さを感じさせ、すでにその佇まいから過去に訳ありの暗さをまとっている。おとせ(尾上右近)と十三郎(巳之助)を奥へ追いやってからの伝吉の長ゼリフは、この複雑に張り巡らされた因果のものがたりを観客へ解き明かす重要なものだが、あまりに多くの情報が詰め込まれているために誰が言ってもわかりにくい。これをたくみに整理して立体的に聞かせたのはさすがベテランといったところ。

「お竹蔵」になり、お坊吉三に金を返してくれるように頼み込む伝吉が、もうこれまでと数珠を切ってむかしへ戻るその凄み。

 

休憩をはさんで「吉祥院の場」になる。梅枝と愛之助のやりとりは「大川端」とうってかわって自然な世話のテンポ感があってよい。前述のとおり梅枝が中性的な雰囲気をまとっているため、この場でのかすかに仄めかされるふたりの同性愛的な関係が(仁左衛門・玉三郎のような過剰さはなく)さながら美しい絵のように(錦絵のように、とは言わない)見えてくる。この場の松緑は、お坊とのやりとりや、おとせと十三郎の話を聞いているあいだのハラがはっきりしない。とくに双子の許されぬ関係を知りながら、それを言外ににおわすことに成功していない。しかし、いざふたりを手にかけ殺めようと決心してからはぐっと芝居が引き締まる。みずからの運命に慄きながら「悪いことはできねえなぁ」と嘆く切実さ。源次坊との包丁をめぐるやりとりの不気味さ。こういった場面での松緑の不思議な説得力は圧倒的である。この得も言われぬ迫力は舞台がまわって「墓地」の場になってもつづく。ここでは、右近と巳之助が殺される間際に見せる「犬手」がおもわずぞくっとさせるうまさ。

大詰は「火見櫓」。上手からでる梅枝が、不思議なことに足がかじかむように見える。この場でそう思えたのははじめてのことかもしれない。踊りがうまいひとだけに、ひとつひとつのきまりが絵のように美しい。松緑、愛之助と三人そろって、充実したキリであった。

 

後半の『二人静』は能の同演目を、玉三郎が自由にアレンジした新作舞踊劇。

静の霊は玉三郎。その静の霊に取り憑かれる若菜摘(菜摘女)は児太郎。能ではツレであるが、ツレのようでありながらワキのようで、独特な立ち位置であるが、実質的には主役といえる。花道からあらわれた若菜摘が「名乗り」をすると、本舞台にて舞う。そこにスッポンから静の精があらわれふたりがむきあって言葉を交わす。

どうも気になるのが若菜摘の居所。若菜摘がかなり下手よりにいるため、七三の玉三郎とのあいだにはせまく限定された関係がつくられる。結果として、舞台上手側はがらんと隙間風が吹くのだが、それでよいのだろうか。

神職(彦三郎)の出になる。ワキ的な役割かと思いのほか、ひととおり若菜摘から話を聞くと、観客(もちろん民衆に)むかって「静御前の舞をみよ」とお触れを告げる狂言方のような役目でもある。

白拍子の舞になる。水干に烏帽子という、一般的なイメージの静御前の姿に身をやつした玉三郎と児太郎。能がかりの静かな踊りを連れ舞うのだが、玉三郎が身体の芯を保ったまま舞うのにたいして、児太郎が歌舞伎役者らしく対角線上の頭や四肢が連動して動いてしまう。これは生きている若菜摘と亡霊である静御前を対比させた意図的なものなのかどうかはわからない。一例をあげれば、並んで座ったふたりがともにシオリ(左手を顔にあてで泣く仕草をすること)をする場面でも、玉三郎は左手は動くが頭が微動だにしないのにたいし、児太郎は頭が手と連動して動いてあいるのだ。

杵屋勝四郎をはじめとして長唄が美しい声とアンサンブルを聞かせるのが印象に残る。面白いアイディアもあったと思うのだが、全体的に演出上の疑問がいくつも感じられる一幕であった。そもそも、玉三郎が意図しているようなシンプルな能がかりの舞踊が歌舞伎座の舞台に合うとは思えないのだが。

 

 

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