黒井緑朗のひとりがたり

きままに書きたいことを書き 云いたいことを云う

九月大歌舞伎第三部(歌舞伎座)

 

話題となった九月歌舞伎座の第三部、片岡仁左衛門と坂東玉三郎による『東海道四谷怪談』の千穐楽を観る。

今回は「浪宅」から「隠亡堀」だけというもっともシンプルな上演。三十八年ぶりというこのふたりの『四谷怪談』は、忠臣蔵外伝という世界も、鶴屋南北の歌舞伎であるという様式もすべて忘れさせ、現代によみがえったギリシャ悲劇ともいうべき様相をていした圧倒的なものであった。

 

「浪宅」の幕があくと、仁左衛門の伊右衛門が傘張りの内職をしている。そのたたずまい、セリフのやり取りがごく自然なのがまずよい。ことさらに悪の色気を強調するでもなく、リアルな芝居のなかでそれを感じさせる。さまざまな伊右衛門があるが、仁左衛門のそれはやや暴力的などこにでもいる男の日常がそこにあるのが特徴だ。

玉三郎のお岩が薬を飲む場面がまず最初の見どころ。下手へ歩いて湯を汲むところから、赤子のそばで薬を飲み終わるその一連の所作が、まるで『先代萩』での政岡の飯炊きを見るようにひとつの流れになっている。わたしたちはその薬が毒薬であり、のちにお岩の顔が無残に変わってしまうことを知っているはずなのだが、そのようなことをいっさい感じさせないところが独特なところ。産後の血の道の病もこの薬を飲んで楽になるのだろうと思わせるほど、なにひとつ滞りなくかつ美しい。だからこそ、そのあとの悲劇が際だつのである。

「つねから邪険な伊右衛門どの」の有名なセリフは、ぐっと調子をおさえていながらリズムよく、これまで聞いたことのないような深遠な闇がひろがる。ここで特筆すべきは黒御簾の合方で、玉三郎のセリフに空気のように寄り添い、その虚無といってもいい闇を演出する。これほど黒御簾から聞こえる三味線の音色と間がが繊細であったことはめずらしい。もはやこれはよい意味で歌舞伎の枠を超えている。

 

盆がまわって「伊藤屋敷」になる。たいていの伊右衛門は、妻お岩を捨てて隣家の娘お梅との結婚を承知する過程が短絡的に見えてしまう。提示された金に目がくらむのか、病がちな妻を疎ましく思っているところへ若い娘を差しだされたからなのか、高師直への士官推挙を頼むための方便なのか。解釈はいくらでもあるだろうが、ややていねいさにかける台本であることは間違いない。しかし今回の仁左衛門を見ていると、それらの要素がひとつにつながって、ふとしたきっかけで話が進むのを受け入れるように見える。いささか暴力的で思いやりにかけるところはあるが、どこにでも(そして現代においても)いそうなひとりの男が、まわりの邪な思いのなかで、知らず知らずのうちに悪の道へといざなわれていく。だからこそ伊右衛門は、伊藤屋敷からの帰りに毒薬は死ぬほどのものではないらしいと独り言ち、自分を納得させるのだ。この人物造形がドラマに現代性なリアリティをもたらしている。

伊藤家のひとびとの存在もこの不思議なリアリティに参画している。亀蔵の伊藤喜兵衛、萬次郎のお弓、千之助のお梅のさらさらとした不気味なほど自然な芝居が、じわじわと伊右衛門を運命の落とし穴に追い込んでいく。考えてみれば、妻子がある男に岡惚れし、そのためにお岩に秘伝の毒薬を飲ませたと聞いても顔色ひとつ変えないお梅こそ、この芝居でいちばん恐ろしい悪人ではないか。彼らのうすら寒くなる人非人ぶりが、ポジネガ反転してどこにでもいそうな伊右衛門の悲劇をことさら強調していることはいうまでもない。

仁左衛門と玉三郎のふたりの芝居がこのようであるから、髪梳きから仮祝言、クライマックスで殺害から幕切れまで、不思議といつもの「怖さ」がない。「怖さ」の裏返しとしてしばしばおこる「笑い」もいっさい存在しない。そのかわりにあるのは、底知れぬ圧倒的な「恐ろしさ」である。誰もが知る古典的な怪談劇が、現代をもうつしだす恐ろしい人間のドラマとしてあらたな顔を見せたように思われた。

按摩の宅悦は松之助。地の芝居のうまいひとだけにこのリアルな芝居によくあっているが、泣く赤子、苦しむお岩、もがく小平に翻弄されての「南無三宝」など要所で流れてしまいきまらないのがもったいない。

 

休憩の後「隠亡堀」になる。いつもの戸板返しなどの趣向があるが、小平とお岩の早変わりもないので、やや段取りめいて面白さにかける。ここまで類のないリアルなドラマを前場までつくりあげたのだから、もうひとつ思い切った工夫があってもよかったのではないか。

尾上松緑の直助権兵衛はこってりとしたセリフとたっぷりした身体の動きが南北ものらしくて面白いが、やや声をつくりすぎていて仁左衛門とリズムが合わない。

仁左衛門の伊右衛門、松緑の権兵衛、橋之助の与茂七、そして玉三郎二役のお花がそろっての「だんまり」はそれまでとはテイストがかわりたっぷり古風でみごたえがあった。

 

 

 

f:id:kuroirokuro:20210927161350j:plain